NOVLUM
足音の表紙

現代ホラー / 短編

足音

作:NOVLUM編集部 ・ 開始 2026.05.24 ・ 最終更新 2026.05.24

築四十三年の木造アパートに越してきた渡辺涼は、翌日から天井の足音に気づく。二階建てのこの建物に三階はないはずなのに——いつも同じ時刻、いつも同じ歩幅で、誰かが歩いている。

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足音

「上の部屋から足音がするんですけど」と渡辺涼が不動産屋に電話したのは、越してきて三日目の夜のことだった。

担当者はしばらく黙り、「そうですか」とだけ言った。他には何も言わなかった。「確かめてもらえますか」と念を押すと、「一度確認いたします」と返ってきて、翌日には「特に問題は確認できませんでした」という短いメールが届いた。本文の末尾に担当者の電話番号が書かれていたが、涼はかけなかった。かけたところで何かが変わる気がしなかった。

この建物は二階建てだ。

入居前の内見で、涼はそれを確かめていた。一階に四部屋、二階に四部屋。涼の部屋は二〇三号室、南向き、バス・トイレ別、築四十三年、敷金礼金ゼロ。不動産サイトの写真で見るよりも廊下の照明は暗く、共用トイレの横のタイルに小さな罅が入っていたが、隣の部屋との壁が厚そうなことと、窓から細い路地が見えるだけで隣家の目線が入らないことが気に入った。家賃は同じ駅の他の物件と比べて、ひとまわり安かった。

内見の帰りぎわ、涼は廊下の突き当たりに気づいた。

二階の廊下の端に、階段があった。上へ伸びる階段が、途中で断ち切られたように終わっていた。最上段から先は壁になっていて、ペンキで塗りつぶした跡がある。隣接する壁との色が、わずかにちがっていた。塗料が浮いているところがあり、指で触れたら落ちそうだった。担当者に何も言わず近づこうとしたら、「そちらは使われておりませんので」と穏やかに、しかし確実に止められた。

帰りの電車で、涼はそのことを少し考えた。しかし翌朝には忘れていた。


足音は、越してきた最初の夜から始まった。

午前一時を過ぎたころ、布団の中で半分意識が浮上したのと同時に、真上の天井から音がした。かすかに、しかしはっきりと——誰かが歩いている。リズムは一定で、歩幅も揺れない。部屋の端から端まで往復するような動きで、行って、引き返して、また行く。それを繰り返す。

涼は目を開けて天井を見た。染みがひとつ、真ん中あたりにある。古い建物だ、梁が膨張しているだけかもしれない、と自分に言い聞かせた。しかし梁が軋む音に規則性はない。この足音には、重さがあった。足裏が床板を踏み込む、あの微妙な沈み込みの感触が、天井を通して伝わってきた。一歩ごとに、わずかに蛍光灯の傘が揺れた。

涼は時計を見た。一時十二分だった。

翌晩も、一時十分ごろに始まった。翌々晩は一時十四分。平均すると、だいたい一時十分から十五分の間に音は始まり、三十分ほど続いて、ある瞬間にふっと消える。消え方は唐突で、歩き終わったというよりも、電源を切ったような止まり方をした。

最初の二週間は眠れなかった。

音がしている間、涼は天井を追った。右から左へ。左から右へ。止まる。また動く。足音は部屋の中央あたりで止まることが多く、止まっている時間は数秒から十数秒だった。止まっている間の沈黙が、動いているときよりも怖かった。どこかに向けて立ち止まっているような、その重さが。

三週間が経つと、涼は音を聞きながら眠れるようになった。

慣れることは、怖いことだ——と涼は日記に書いた。続きは書かなかった。

気づけば、日常の中に組み込まれていた。一時になると自然に目が覚め、足音が始まり、三十分後に消えると、また眠る。目覚ましが鳴るよりも先に、足音で時間を知るようになっていた。朝になれば何も変わっていない。仕事に行き、帰ってきて、飯を食い、風呂に入って寝る。深夜一時に目を覚ます。この生活が、三ヶ月続いた。


改めて調べたのは、四月の末のことだった。

市の建築台帳の写しを取り寄せると、この建物はもともと三階建てであることがわかった。昭和の末に建てられ、平成の中ごろに三階部分を解体し、現在の形になった。解体の理由は記録に残っていなかった。台帳には「構造変更届出済」とあるだけで、変更の動機を示す書類は添付されていなかった。

涼の部屋——二〇三号室——の真上にあたる位置には、「三〇三号室」として間取りが登録されていた。洋室一間、約十八平米。北側に小窓。その欄のよこに、鉛筆書きで「居住」という文字があり、消しゴムで消した跡があった。いつ書かれ、いつ消されたものかは、わからなかった。

涼はプリントアウトした台帳をしばらく眺めて、引き出しの奥にしまった。

四月の終わりに、隣の二〇一号室に新しい入居者が越してきた。

宮本という、四十代とおぼしき女性だった。白髪交じりの落ち着いた雰囲気で、化粧を薄くして、柔らかな物腰だった。廊下で顔を合わせたとき、涼は試しに聞いてみた。

「上の部屋から足音、聞こえませんか」

宮本は少し目を細めた。

「聞こえますよ」と言った。「最初は気になりますよね」

「やっぱり聞こえるんですね」と涼は言った。「ここに住んでいる他の方は、どうしているんですか」

「みんな慣れていくんです」と宮本は言った。「ここだけ家賃が安い理由は、そこにあって。前の入居者に聞いた話では、三年前の改修が終わったすぐあとから、ということでしたね」

「改修というのは、三階を取り壊したやつですか」

宮本はそこで少し間を置いた。

「そうだと思います」と彼女は言った。「詳しくは知りません」

涼がもう少し聞こうとすると、「郵便物、一度取り込んでおきましたよ」と宮本は話題を変えた。涼の郵便受けから溢れていた封筒を、玄関マットのよこに整えて置いてくれていた。それ以上は教えてくれなかった。


五月に入って、涼は何度か管理会社に電話した。

「確認いたします」と毎回言い、三日後に「異常は確認されませんでした」というメールが届く。そのたびに、本文末尾の電話番号が変わった。二度目にかけたとき、担当者が前回と別の人間に変わっていた。涼が「以前にも同じ相談をしました」と言うと、相手は「そのような記録は残っておりません」と言った。

五月の半ば、宮本が引っ越した。

玄関先で段ボールを運んでいる宮本に声をかけると、「仕事の都合で」と彼女は言った。涼は「あの音のせいじゃないですか」と聞けなかった。「お世話になりました」と頭を下げると、宮本は振り返って笑顔を作ったが、その笑顔が少し歪んでいた。口もとは笑っていたが、目のふちが引きつっていた。引っ越しのトラックが角を曲がって見えなくなるまで、涼は廊下に立っていた。

翌朝、涼は廊下に出た。

二〇一号室の扉に鍵がかかっている。一〇一号室も、一〇二号室も。一〇三号室は半年ほど前から空き室のはずだった。二〇二号室の扉には郵便物が溜まり始めていた。涼はそれを見て、そちらもいつの間にか空になっていたことを知った。

残っているのは、自分だけだった。

夜になると決まって音がする建物で、涼だけが残っていた。他の入居者たちが、音に慣れた果てに出ていったのか、それとも音が変わったのかは、もう誰にも聞けなかった。


金曜日の夜。

涼は鍵とチェーンをかけ、電気をつけたまま布団に入った。

何も変わっていない、と自分に言い聞かせた。音は毎晩同じ時刻に始まり、三十分で消え、何も起きていない。三ヶ月間、それだけだった。それでも今夜は違った。建物の中に自分しかいないという事実が、静かに喉に絡んでいた。窓の外から五月の夜風が入ってきて、涼はカーテンを引き直した。閉めても隙間から風は入ってくる。

深夜一時十三分、足音が始まった。

いつもと同じリズム。いつもと同じ重さ。しかし涼はその夜、初めてちがいに気づいた。足音が止まる位置が変わっていた。

これまでは部屋の中央あたりで止まっていた。しかし今夜は、止まるたびに——少しずつ——扉のほうへ近づいていた。なぜそれがわかるのかはうまく説明できないが、天井を伝ってくる振動の角度が、微妙に変化していた。涼は布団をかぶり、膝を抱えた。心臓が喉元まで上がってきた。掌が、汗ばんでいた。

足音が止まった。

今夜は、止まったまま動かなかった。長い沈黙が続いた。天井の染みを涼は見続けた。布団の端を握りしめた指が、白くなっていた。

そのあとで、壁の向こうから音がした。

封じられた階段の、ペンキで塗られた壁の向こうから、木が軋む音がした。一段。また一段。かつてそこにあった階段を踏みしめるように、ゆっくりと、重さを持った何かが降りてきた。涼は息を止めた。目を閉じた。部屋の電気をつけたままにしていてよかった、と思った。

音は続いた。五段。六段。踏むたびに、木が低く鳴った。

やがて音は、共用廊下のほうへ続いた。廊下の床板が、細かく振動する。その振動が涼の部屋まで届いた。どの部屋の前で止まるかを、涼は数えた。一〇一。一〇二。一〇三。振動が遠のくのを待って、また戻ってくるのを感じた。足音は廊下をゆっくり歩き、そして止まった。

どの扉の前に止まったのかは、わからなかった。

朝になるまで、涼は眠れなかった。


翌朝、廊下に出ると、何も変わっていなかった。

扉の外に人影はなく、郵便物も増えていなかった。涼は突き当たりの壁まで歩いた。封じられた階段の脇、床の端に、細かな木くずが散っていた。乾燥した古い木が折れたような、粉のような屑だった。昨日の朝にはなかった。触ってみると、まだかすかに湿り気があった。古い木の芯から来るような、暗い匂いがした。

管理会社に電話すると、「確認いたします」と言った。

三日後に「異常はありませんでした」というメールが届いた。担当者の名前は、前回と異なっていた。

涼はそのメールを消去してスマホを置いた。

窓の外で、五月の風が吹いていた。洗濯物が揺れる音がして、隣の物干し台には何も干されていないことを思い出した。宮本はもういない。この棟に残っているのは自分だけで、夜になって自分が電気を消したら、この建物にひとつも灯りが灯らない。

夜になれば、また聞こえるだろう。

いつもと同じ時刻に、いつもと同じ歩幅で。

そして今度は——きのうより、もう一段、近くから。

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まもなく第1話を公開予定です。