NOVLUM
あと七分の表紙

現代ラブコメ / 短編

あと七分

作:NOVLUM編集部 ・ 開始 2026.06.21 ・ 最終更新 2026.06.21

梅雨のコインランドリーで、{茜|あかね}はいつも七番の乾燥機の前に座る男を「七番の人」と呼んでいた。片方だけ消える靴下と、たたまれた小さなカーディガン。あと七分の沈黙が、ふたりの距離をゆっくり乾かしていく——

#短編#現代ラブコメ#週刊短編#コインランドリー#梅雨

あと七分

「それ、あと七分は止まりませんよ」

声をかけられて、あかねは乾燥機のガラス扉から手を離した。中では生乾きのバスタオルが、まだ重たそうに回っている。

「……知ってます。見てただけです」 「回ってるのを?」 「回ってるのを、です」

折りたたみ台のほうで、男が小さく笑った気配がした。茜は振り返らなかった。けれど耳の先が、なぜだか少しだけ熱い。

梅雨に入ってから、〈コインランドリー こもれび〉に通う回数が増えた。ベランダに干しても、シャツはいつまでも湿ったままだ。生乾きのにおいに囲まれて過ごすより、明るい店内で機械の唸りを聞いているほうが、ずっと気が紛れた。

雨の夜は、たいてい彼がいた。

窓際の長机に分厚い文庫を広げ、ときどき顔を上げては乾燥機を眺める。使うのは決まって七番だった。だから茜は、心のなかで彼を「七番の人」と呼んでいた。歳は自分と同じくらいか、少し上だろうか。雨に濡れた前髪を、彼はいつも乾かさないままにしている。

茜は校正の仕事をしている。家でひとり、刷り上がる前の文章のなかの、小さな間違いを探し続ける日々だ。誤字を一つ拾うたびに、自分が世界の役に立っている気がする。けれど画面を閉じれば、部屋には自分の打鍵の音しか残らない。引っ越してきて半年、近所に知った顔はまだひとりもいなかった。

だからこの店の、漂白剤と柔軟剤の混じったにおいが、茜は嫌いではなかった。誰かの暮らしの気配が、ここにはある。乾燥機の丸い窓のなかで、知らない誰かのシャツが踊っているのを見ていると、自分もまだ、世界のどこかに引っかかっていられる気がした。


最初に口をきいたのは、靴下のせいだった。

茜の靴下は、なぜか片方だけよく消える。洗って、乾かして、家に帰ってたたむと、いつも片方が足りない。その夜も、グレーの靴下が一枚、相方を失って手のなかに残っていた。

「また片方ない」 つい、声に出していた。

すると長机のほうから、彼が立ち上がった。机の端に置かれた小さな籠を持って、こちらへ来る。なかには、誰かの忘れていったらしい靴下やハンカチが、几帳面に並んでいた。

「これ、ないですか」 差し出されたのは、グレーの靴下だった。爪先に、見覚えのある小さな穴。

「……なんで、あなたが持ってるんですか」 「三番の乾燥機の裏に落ちてました。誰のかわからなくて、預かってたんです」

茜は籠を覗き込んだ。片方だけの靴下が、ほかにもいくつかある。持ち主を待ったまま、行き場をなくしたものたち。

「ここの店員さん、ですか」 「いえ。ただの客です」 彼は少し困ったように笑った。「拾ったものを捨てるのが、どうも苦手で」

それから茜たちは、雨の夜にだけ言葉を交わすようになった。名前も、仕事も、訊かなかった。乾燥機が回るあいだの、短い世間話。それだけで充分だった。彼が栞代わりに使っているのが電車の半券だと知ったとき、茜は少しだけ嬉しかった。理由は、自分でもわからなかった。

ある夜は、洗剤のことで言い合いになった。

「粉のほうが、絶対に汚れは落ちます」と茜が言うと、彼は心外そうに眉を上げた。 「液体です。溶け残りがないぶん、布が傷まない」 「校正者の意見として、几帳面そうに見えてけっこう大ざっぱですね」 「校正者?」 「あ」

職業を明かすつもりはなかった。彼はそれ以上訊かず、ただ「道理で、人の間違いを見つけるのが速いわけだ」と笑った。その笑い方が存外やわらかくて、茜は窓のほうへ目を逸らした。ガラスに映った自分が、つられて笑っていた。

別の夜は、急な土砂降りで、店の軒先に二人で取り残された。雨はバケツをひっくり返したように降り、傘を差しても無駄なほどだった。並んで雨を眺めるあいだ、彼は何も話さなかった。けれど沈黙が、不思議と重くなかった。雨の幕の向こうで、信号だけが赤と青を律儀に繰り返していた。

「雨、嫌いですか」と茜が訊くと、彼は少し考えてから答えた。 「昔は。今は、嫌いじゃないです」 理由は、やはり訊かなかった。訊いてしまえば、この距離が変わってしまう気がした。

その雨上がり、店に常連の老婦人が入ってきた。腰の曲がった人で、重い洗濯籠を抱えるのも難儀そうだった。彼はごく自然に立ち上がり、その籠を受け取って、いちばん手前の洗濯機へ運んだ。硬貨の入れ方がわからないと言われれば、しゃがんで投入口を指で示す。礼を言われても、何でもないことのように本へ戻っていく。

茜は、その横顔をそっと盗み見た。親切を、手柄にしない人だった。拾った靴下を捨てられないのも、たぶん同じ心からきている。気づけば茜は、彼が次にいつ来るのかを、雨雲を見上げて数えるようになっていた。


異変に気づいたのは、六月の半ばだった。

その夜、彼は折りたたみ台で洗濯物を整えていた。茜の乾燥機は、まだ十二分残っている。手持ち無沙汰に眺めていて、ふと、彼の手元が目に入った。

小さなカーディガンだった。淡い桃色の、女物の。

彼はそれを、しわひとつ残さないよう、ていねいにたたんでいた。続いて、もっと小さな肌着のようなものを広げる。指の動きが、慣れている。誰かのために、何度もそうしてきた手つきだった。

茜の胸の奥が、すっと冷えた。

そうか、と思った。当たり前のことだ。雨の夜にひとりで現れる男に、家族がいない理由などない。淡い桃色を選ぶ誰かが、彼の帰る部屋で待っている。それだけのこと。

なのに、なぜこんなに胸が痛むのだろう。茜は、自分の感情に説明をつけられなかった。校正なら、間違いの理由はいつもはっきりしている。送り仮名、変換ミス、事実の食い違い。けれど自分の心には、どこに赤を入れればいいのか、まるで見当がつかなかった。たぶん、見当をつけたくなかった。

「茜さん?」 いつのまにか、彼がこちらを見ていた。

「あ……すみません。ぼうっとして」 声が、思ったより硬くなった。

乾燥機の終了音が鳴る。茜はまだ温かい洗濯物を、籠に乱暴に放り込んだ。たたむ余裕も、その夜はなかった。

「お先に」 それだけ言って、傘も差さずに店を出た。背中で、彼が何か言いかけた気がした。けれど雨の音が、その続きを消してしまった。


次の週、茜はわざと遅い時間に店へ行った。彼のいない時刻を選んだつもりだった。

なのに、七番の前に彼は座っていた。

「来ないかと思いました」 彼が言った。膝の上に、文庫はない。

茜は黙って、空いている洗濯機に服を入れた。背を向けたまま、洗剤を量る手が、わずかに震えた。

「この前のカーディガン」 彼の声が、追いかけてくる。「姉のなんです」

振り向くと、彼は少し気まずそうに頭をかいていた。

「先月、姉に子どもが生まれて。旦那さんが単身赴任で、夜は手が回らないらしくて。だから僕が、仕事帰りに洗濯物だけ預かってるんです。赤ん坊の服って、すぐ汚れるから」

茜は、たたまれた小さな肌着を思い出した。あの慣れた手つきは、誰かを愛する手つきだった。それは間違っていなかった。ただ、相手が違っただけだ。

「……お姉さんの」 「桃色、僕には全然似合わないので」 彼は自分の地味なシャツを引っぱってみせた。「姉に毎回、たたみ方が雑だって叱られます。これでも、ずいぶん上達したほうなんですけど」

茜は、自分の頬が一気に熱くなるのを感じた。先週の自分が、何を勝手に思い込んで、何に勝手に傷ついたのか。全部、彼に見抜かれている気がした。

「あの夜、追いかけようとしたんです」彼は続けた。「でも、あなたが傘を忘れていったから。返すきっかけにしようと思って、ずっと預かってました」

彼が籠から取り出したのは、茜の黄色い折りたたみ傘だった。あの靴下と、同じ場所に。

「拾ったものを捨てるのが、苦手なんでしたっけ」 ようやく出た声は、笑っているのに、少し濡れていた。

「ええ」彼はうなずいた。「特に、これは」


乾燥機が、低く鳴り続けている。

「あと、何分ですか」 茜が訊くと、彼は七番の表示を見た。

「七分」

七分。最初に交わした言葉と、同じ数字だった。

「じゃあ、七分だけ」茜は彼の隣に腰を下ろした。「待ちます」

肩が触れそうで、触れない距離。そのわずかな隙間に、雨に濡れた服のにおいと、乾いたタオルのにおいが、混ざって漂っていた。

「あの」彼が、前を向いたまま言った。「名前、まだ訊いてませんでした」

「茜です。秋本あきもと茜」

とおるです」

「透さん」声に出すと、知らない名前なのに、ずっと前から呼んでいたような気がした。「変な名前で覚えてて、すみませんでした。七番の人、って」 「知ってます」彼は笑った。「僕も、勝手に呼んでたので。校正の人、って」 おたがいさまだ、と茜は思った。名前を知らないまま、ちゃんと相手を見ていた。それは、悪くない始まり方だった。

それから、ふたりとも黙った。回る乾燥機を、ただ並んで眺めた。沈黙は、もう気まずくなかった。むしろ、この七分がもっと長ければいいと、茜は思っていた。

窓の外で、雨脚がふいに弱まった。アスファルトを叩く音が、少しずつ間遠になっていく。

終了音が鳴った。

透が立ち上がり、七番の扉を開ける。温められた洗濯物の、ふくらんだ湯気。そのなかから彼が取り出したのは、桃色のカーディガンではなく、片方だけのグレーの靴下だった。

「もう片方、見つかりました」 そう言って、彼は二枚をそろえ、きちんと重ねて茜に渡した。

ばらばらだったものが、ようやく対になる。

茜はそれを両手で受け取った。乾きたての靴下は、まだほんのり温かかった。片方を探してくれていたのだ、ずっと。誰のものかもわからない一枚を、捨てられないあの籠のなかで。

「ありがとう」 やっと言えた言葉は、たった五文字なのに、喉の奥でつかえた。透は何でもないというふうに首を振り、それから、ほんの少しだけ照れたように目を伏せた。その仕草が、茜の胸に小さく刺さって、ずっと抜けないでいてほしいと思った。

窓の外では、雨上がりの空が、夜の隙間からわずかに藍を覗かせている。

次の雨は、いつ降るだろう。 そんなことを待ち遠しく思う自分に、茜は少しだけ呆れて、それから、笑った。

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まもなく第1話を公開予定です。