NOVLUM
回覧板の表紙

現代ホラー / 短編

回覧板

作:NOVLUM編集部 ・ 開始 2026.07.12 ・ 最終更新 2026.07.12

静かな住宅街に越してきたゆき。隣の老女が毎夕、同じ時刻に回覧板を届けにくる。挟まれた手書きの紙には、家々の住人の癖と名前が並び、一軒ずつ赤い線で消されていた——

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回覧板

「これ、お隣からですよ」

低いしわがれ声に、木下ゆきは玄関の戸を引いた。門灯のとどかない薄闇に、小柄な老女が立っている。差し出された黒い板が、街灯の白い光をぬめりと弾いた。回覧板だった。

「ああ……すみません、わざわざ」

受け取った手のひらに、板の冷たさがじかに伝わってきた。夕方だというのに、氷を握ったように冷える。老女は山名やまなのぶと名乗った。三軒先の家で、ひとりで暮らしているという。

「順番、木下さんの次は今川いまがわさんね。左どなり」

「はい、わかりました」

のぶは小さく頭を下げ、背を丸めて帰っていった。舗装のうえを、片方だけ引きずるような足音が遠ざかる。ゆきはその音が消えるまで、なぜか戸を閉められずにいた。


緑ヶ丘みどりがおか三丁目に越してきて、二か月が過ぎていた。

離婚を済ませ、旧姓に戻し、勤め先にも通える古い建売を安く借りた。庭のない、隣家と肩を寄せあうような一角。昼はしんと静かで、夕方になると、どこかの台所から油の匂いだけが流れてくる。人の姿はあまり見ない。それでいて、視線だけはいつもどこかにある気がした。

回覧板というものを、ゆきは久しぶりに見た。自治会の連絡を挟んだ板を、一軒が読んで判をつき、次の家へ手渡していく。子どもの頃、実家にもあった。夏祭りの案内、火の用心、粗大ごみの日。判の朱肉が乾かないまま渡すと、次の紙が薄く汚れる。そんなことまで、指先が覚えていた。

引っ越しの挨拶をしようにも、両隣は昼のあいだ物音ひとつ立てない。回覧板だけが、この通りとゆきをつなぐ細い糸だった。夜、判を押しながらふと顔を上げると、道の向かいの暗い家の二階に、白いものがぼんやり浮かんでいることがあった。目をこらすと、消える。カーテンの隙間か、街灯の照り返しか。そう思い直しても、見られていたという感触だけは、朱肉の匂いのように指先へ残った。

その晩、板を居間に置いて、挟まれた紙を一枚ずつめくった。町内清掃のお知らせ。防犯灯の球替え。よくある通知が四枚。

五枚目で、指が止まった。

罫線のない、手書きの紙だった。鉛筆の細い字で、通りの家が上から順に並んでいる。〈今川〉〈ほり〉〈山名〉——番地の順だろう。名前の横には、小さな覚え書きが添えてあった。

 今川 夜十時、門灯を消す。犬。  堀 水曜だけ雨戸を開けない。  山名 いちばん最後まで、灯りが点いている。

自治会の誰かが配ったのだろうか。けれど回覧の通知にしては、書きぶりが妙に近い。まるで、それぞれの窓を毎晩のぞいてきた者の手控えのようだった。

紙の裏には、うっすらと、消しゴムでこすった跡が残っていた。かつて書かれ、消された名前。光にかざすと、へこんだ筆跡が幾層にも重なって浮かんだ。何十人分もの名が、この一枚に、書かれては消されてきたのだと知れた。紙のふちは手ずれで飴色になり、角がやわらかく丸まっている。ずいぶん長いあいだ、誰かの手を渡ってきた紙だった。

いちばん下に、一行だけ空きがある。まだ何も書かれていない、その空白を、ゆきはしばらく見つめた。


翌週も、回覧板は同じ時刻に来た。

門灯もつけないうちから、のぶは戸の前に立っていた。板を渡すとき、指と指がわずかに触れる。骨の感触だけがある、乾いた冷たい指だった。

「木下さん。夜は、灯りを消しなさいな」のぶは目を細めた。「点けっぱなしは、よくないよ」

ゆきは笑ってごまかした。ひとりの夜は、玄関の灯りだけは点けておかないと落ち着かない。暗がりのなかで戸が開く音を、いつからか怖がるようになっていた。それを言い当てられたようで、うなじがすっと冷えた。

居間で紙をめくると、例の手書きの一枚は、また挟まっていた。前より字が増えている。そして——〈今川〉の名の上に、赤い線が一本、まっすぐ引かれていた。

心臓が、ひとつ大きく打った。

翌朝、ゆきは通りを歩いてみた。左どなりの今川の家は、カーテンがすべて外され、窓の内側に白い紙が貼られていた。〈売家〉。門の犬小屋は、空だった。つい先週、板を回す順番として名を聞いたばかりの家が、まるで最初から誰もいなかったかのように、静まりかえっている。

引っ越したのだ。そう思おうとした。けれど、あの赤い線を引いたのは誰なのか。線が先か、留守が先か。考えると、口のなかが乾いて、舌が上あごに貼りついた。


赤い線は、週ごとに増えていった。

〈堀〉が消えた週、堀の家の雨戸は閉じたまま、二度と開かなかった。〈三沢みさわ〉が消えた週、三沢の庭木は、一晩で葉を落としたように見えた。線が引かれるのは、いつものぶが板を届けにくる、あの薄闇の時刻の少しあとだった。

ゆきは判を押すのをためらうようになった。判を押せば、板は次へ渡る。渡せば、また一週間がめぐって、赤い線が一本増える。自分がその輪の一部を回している気がして、朱肉の匂いさえ、鉄の味のように喉の奥にのぼった。

一度、板を渡さずにおいた。判を押さず、たたきに立てかけたまま二日。誰にも回さなければ、輪は止まるはずだった。

だが三日目の朝、板は消えていた。戸締まりはしていた。鍵は内側からかけたままだった。夕方、いつもの時刻にのぶが来て、何ごともなかったように新しい板を差し出した。

「木下さん。順番は、止められないよ」

のぶの目は、ゆきの背後の、暗い廊下の奥をじっと見ていた。ゆきは振り返らなかった。振り返れば、そこに何かがいると、体のほうが先に知っていた。うなじの産毛が、いっせいに逆立った。

ある夜、眠れずに通りへ出た。街灯だけがならぶ道を、端から端まで歩いてみた。灯りの点いた窓を、指で数える。かつては、どの家からもテレビの光や台所の湯気が漏れていたはずだった。いまは、七軒に一軒。歩くほどに、その数は減っていく気がした。

山名の家の前を通ると、二階の窓に、ひとつだけ明かりが点いていた。カーテンの向こうで、小さな影が、机に向かって何かを書いている。鉛筆を握る、丸まった背中。ゆきは、声をかけられなかった。あれを見てはいけないと、胸の奥で誰かがささやいた。踵を返すと、背中に、影の視線がぴたりと貼りついた。

一度だけ、のぶに尋ねた。

「あの、手書きの紙……あれは、どなたが」

のぶは、板を抱えたまま、しばらく黙っていた。それから、通りのずっと奥へ目をやった。街灯の下、ひとつ、またひとつと、暗い窓がつらなっている。灯りの点いた家は、もう数えるほどしかなかった。

「みんな、いなくなるからね」のぶは静かに言った。「誰かが、覚えていないと。ここに、誰がいたのか」

その声は、責めるでも、おびえるでもなかった。ただ、こぼれ落ちるものを両手で受け止めつづけて、疲れきった人の声だった。


秋の入り口の、風の冷たい夕方だった。

その日、回覧板は、ひとりでに戸の前にあった。

呼び鈴も、足音もなかった。仕事から帰ると、板がただ、たたきの上に立てかけてあった。のぶの姿はどこにもない。三軒先の山名の家は、灯りが消えていた。あれほど「いちばん最後まで点いている」はずの、その窓が。

ゆきは板を居間へ運んだ。指が震えて、うまく紙がめくれない。手書きの一枚を、ようやく開いた。

〈山名 いちばん最後まで、灯りが点いている〉——その名の上に、赤い線が、引かれていた。まだ濡れて、光っている線だった。

息が浅くなる。ゆきは通りへ飛び出した。山名の家の呼び鈴を、何度も押した。応えはない。郵便受けには、数日分の朝刊がたまり、湿っていた。隣の家の人が、窓からのぞいて教えてくれた。山名さんは、先週、亡くなったのだと。ひとりきりで、誰にも気づかれずに。

では、この一週間、毎晩あの時刻に板を届けにきたのは。指と指を触れあわせた、あの冷たい骨は。

膝から力が抜けた。冷えた舗装に手をついて、ゆきは長いあいだ、そこにうずくまっていた。泣いていたのか、震えていたのかも、わからなかった。

風が、落ち葉を舗装の上で鳴らした。その音が、片方だけ引きずるような、あの足音に聞こえた。顔を上げると、通りにはもう、灯りの点いた窓はひとつしか残っていなかった。自分の家の、玄関の小さな明かりだけだった。


家に戻り、ゆきは手書きの紙を、もう一度ひらいた。

上から順に、名が並び、そのほとんどに赤い線が引かれている。今川。堀。三沢。山名。この通りに、たしかにいた人たち。誰かの門灯の癖。誰かの雨戸。誰かの、いちばん最後まで点いていた灯り。犬を飼っていた今川。雨の日をきらった堀。庭木を大切にした三沢。名まえの下のわずかな覚え書きだけが、その人たちがここで生きていた証だった。のぶは、それを覚えていた。ひとり残らず、消えていくのを見送りながら、たったひとりで、覚えつづけていた。

のぶが毎晩、灯りを消しなさいと言ったのは、脅しではなかった。点けたままの窓は、暗い通りでいちばん目につく。次に見送られるのは、いちばん最後まで灯っている家だと、のぶは知っていたのだ。だからせめて、ゆきにだけは、まだこちら側にいてほしかった。

いちばん下の、あの空白の行に、ゆきは目を落とした。

そこには、いつのまにか、新しい一行が書き足されていた。見覚えのない、けれど震えのないきれいな字で。

 木下 夜、玄関の灯りを消せない。

ゆきの、指が止まった。

その字が、誰の手のものか——考えるより先に、体が動いていた。抽斗から鉛筆を取り、赤い色鉛筆を探した。次に消えるのが誰かを、もう知っている気がした。この通りで、まだ灯りの点いている窓は、ひとつしか残っていない。

自分の家の、玄関の灯りだった。

ゆきは色鉛筆を握ったまま、長いこと、その一行を見つめていた。線を引くべきか。引かずにおくべきか。けれど、そうではないのだと、やがて気づいた。のぶがしていたのは、消すことではなかった。消えていく者の名を、消えるその瞬間まで、たしかにここにいたと、書きとめておくことだったのだ。

ゆきは鉛筆を持ちかえた。赤ではなく、細い鉛筆のほうを。

そして、いちばん下の空白に、まだ来ていない誰かのための、新しい一行分の余白を、そっと空けた。

玄関の灯りは、消さなかった。

次にこの通りへ越してくる誰かが、薄闇のなかでも、ここに人がいたと、わかるように。

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まもなく第1話を公開予定です。