NOVLUM
片っぽの棚の表紙

日常・ほのぼの / 短編

片っぽの棚

作:NOVLUM編集部 ・ 開始 2026.08.16 ・ 最終更新 2026.08.16

夜のコインランドリー〈まわりみち〉の壁には、片方だけになった靴下が画鋲で留めてある。集めているのは、母の仕事上がりを待つ中学二年の少年だった。片っぽになると捨てられてしまう——その理不尽に抗い続ける棚の隅で、七年ぶりに相方の名前が呼ばれる夜の話。

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片っぽの棚

「靴下って、片っぽになったら、どうしてます」

背中からいきなり声がかかって、湯浅ゆあさ都は乾燥機の扉を閉めそこねた。手のひらに、まだ温かい空気がふわりと当たる。

振り返ると、丸椅子に男の子が座っていた。中学生だろうか。膝の上に開いた問題集があって、シャープペンシルの尻で自分のこめかみを軽く叩いている。

「え、と……捨てます、けど」

「ですよね」

少年は残念そうでもなく、ただ確認が取れた、という顔でうなずいた。それから顎で、都の背後の壁を指した。

そこで初めて気がついた。

洗濯機と乾燥機が並ぶ壁の、いちばん端。給水管の脇の狭い白い壁面に、靴下が留めてあった。画鋲で、一枚ずつ。

黒。紺。灰色。くるぶし丈の白。ワンポイントの刺繍が入った子ども用。ぜんぶで二十枚近くある。どれも片方だけだ。洗って干されたらしく、しわは伸びていて、埃っぽくもない。

「なんですか、これ」

「片っぽの棚」

少年は問題集を閉じた。

「ここ、乾燥機の裏に落ちるんですよ。奥まで転がっていくと、掃除の人が来る月末まで出てこない。それで、みんな諦めて帰るんです」

彼は立ち上がって、壁のいちばん下に留めてあった濃紺の靴下を指でつまんだ。裏返して、都に見せる。かかとの内側に、油性ペンで小さく数字が書いてあった。〈6/28〉。

「拾った日です。書いとかないと、どれがいつのか、わからなくなるから」


コインランドリー〈まわりみち〉は、駅から歩いて七分の、細い坂の途中にある。

都がこの町に越してきたのは、六月の終わりだった。決めた部屋には洗濯機を置く場所がなくて、内見のとき不動産屋に言われたのだ。坂の下にコインランドリーがありますから、と。実際に通い始めてみると、それは思っていたほど不便ではなかった。

平日の夜八時すぎ。外は蒸していて、扉を開けるといつも乾いた熱気が押し寄せてくる。柔軟剤の甘い匂いと、ドラムの回る低い音。誰もいないことも多い。誰かいるときは、たいていあの少年だった。

芦沢あしざわ奏太、と名乗った。中学二年。母親が坂の下のコンビニで働いていて、上がりが十時なので、それまでここで宿題をしているのだという。

「家、いてもいいんですけど」

三度目に会った夜、洗濯物をたたみながら奏太は言った。

「テレビつけると音がうるさくて、消すと今度は静かすぎて。ここ、ずっとうるさいから、ちょうどいいんです」

なるほど、と都は思った。ドラムが回る音は、確かにうるさい。うるさいのに、うるさいと感じない種類の音だ。誰かが同じ部屋で寝返りを打っているような音、と言ってもいい。

奏太は毎晩、閉店前の三十分で乾燥機の裏を覗く。長い定規に輪ゴムでガムテープを巻きつけた道具を作っていて、それを隙間に差し込んで、落ちた靴下を釣り上げるのだ。

「先週は四枚でした。梅雨は多いんですよ。乾燥機を使う人が増えるから」

そう言って、彼は棚の隅に置いた大学ノートを開いた。表紙には何も書いていない。中は日付と、靴下の特徴と、そして半分くらいには赤いペンで丸がついていた。

「丸は、相方が見つかったやつです」

ページをめくると、丸の横に短い書き込みがあった。〈おばさん・泣きそうだった〉〈自転車の人・お礼にアイス〉〈スーツの人・受け取らなかった〉。

「受け取らない人もいるんだ」

「けっこういます。もう片っぽ捨てちゃったから、って」

奏太はノートを閉じて、輪ゴムを巻いた。

「でも、そういう人ほど、しばらくこっち見てから帰るんですよ」


七月の終わりの夜、都は釣りを手伝った。

閉店三十分前。奏太が定規の道具を差し出してきて、五番の乾燥機の下、と言った。膝をついて覗き込むと、床とドラムの台のあいだに、指三本ぶんくらいの隙間がある。糸くずと綿埃が薄い層になって溜まっていて、そのずっと奥に、白いものがあった。

「見えます?」

「見える。けど、遠い」

「そこがコツなんです。焦って押すと、もっと奥に行くので」

言われたとおり、定規の先を隙間の底に沿わせて、ゆっくり滑らせる。ガムテープの粘着面が、まず埃を拾った。二度目でようやく布に触れた。手首を返さずに、そのまま引く。

出てきたのは、大人用の白いスニーカーソックスだった。片方だけ。かかとが薄く黄ばんでいて、けれど穴は開いていない。

「上出来です」

奏太は真顔でうなずいた。都は、思った以上に自分が誇らしい気持ちになっているのに気づいて、少しおかしくなった。二十九にもなって、床の隙間から布きれを一枚釣り上げただけで。

その靴下は、都が洗った。奏太が油性ペンで日付を書き、翌日の夜、壁の下段に画鋲で留められた。


自分が片方を失くしたのは、八月に入ってすぐの木曜だった。

洗濯物をかごに移しているときから、なんとなく数が合わない気はしていた。部屋に帰ってたたみ終えて、確信した。灰色の、足首に細い白線が二本入った靴下。その片方がない。

姉が、就職したときにくれたものだった。五足まとめて、包装もされずに紙袋で。いいものを履きなさいよ、足だけは、と姉は言った。当時の都には、その言い方の意味がよくわからなかった。今もわかっているとは言えない。ただ、面接の朝にそれを履くと、なぜか背筋が伸びるということだけは知っている。

あれから七年履いて、生地はもう薄い。薄いけれど、足の裏の形をきちんと覚えている。姉とは、去年の正月から会っていない。

翌日の夜、都は〈まわりみち〉の扉を押した。

奏太は、いつもの丸椅子にいた。都の顔を見て、ああ、という顔をした。

「灰色の、白い線が二本のやつですか」

「……なんでわかるんですか」

「昨日の最後に釣ったので。まだ乾かしてるところです」

彼は洗濯機の上に置いた小さな洗濯ネットを指した。中で、確かにそれが平たく畳まれている。都は思わず、口を開けたまま数秒立ち尽くした。喉の奥がきゅっと詰まって、なぜだかうまく声が出なかった。

「あの、洗ってくれたんですか」

「洗わないと、返せないじゃないですか」

奏太は当たり前のことを言う口調で答えた。それからノートを開いて、〈8/6 灰色 白線二本〉と書かれた行に、赤いペンで丸をつけた。

丸が一つ増えた。ただそれだけの動作だったのに、都はその音を——ペン先が紙をこする、あの短い音を——ずいぶん長いあいだ覚えていることになる。

「ねえ、奏太くん」

「はい」

「どうして、そんなことしてるの」

奏太はしばらく黙っていた。乾燥機の中で、誰かの毛布がぼたん、と落ちた。

「片っぽになったら捨てるって、変じゃないですか」

彼は壁を見ていた。

「靴下は何も悪くないのに、相方がいなくなっただけで、いらないものになる。それって、こっちの都合ですよね」

「……そうだね」

「だから、待たせてます。相方が来るまで」

窓の外を、原付が坂を下っていく音が通り過ぎた。


壁のいちばん右上に、小さな赤い靴下が一枚だけある。

子ども用だ。それも、ずいぶん小さい。かかとに書かれた日付は〈7年前 9/2〉。年まで書いてあるのは、それだけだった。

「これは」

「一番古いやつです。ぼくが小一のときに、ここで拾いました」

奏太は少し笑った。

「そのときは棚とか作ってなくて。ただ、かわいそうだから持って帰ろうとしたら、母さんに怒られて。人のものだから置いときなさいって。それでずっと、そこに」

七年。壁の白さと比べると、その赤だけがわずかにくすんで見えた。

十時を五分すぎて、扉が開いた。

コンビニの制服の上にパーカーを羽織った女の人が、汗を拭いながら入ってきた。奏太が、あ、と言って問題集をかばんに突っ込む。

「すみません、うちの子が」

「いえ、こちらこそ。いつも助けてもらってて」

母親は不思議そうな顔をした。奏太が説明する前に、彼女の視線が壁のほうへ流れていく。そして、止まった。

彼女は靴下のほうへ歩いていって、いちばん右上の、小さな赤い一枚の前で立ち止まった。

「……これ」

「あ、それ、いちばん古いやつ」

「これ、あんたのだよ」

奏太が、口を半分開けたまま母親を見た。

「保育園の年長のとき。夏に、ここで一枚なくしたって大泣きして。二時間くらい探したのよ、私。結局出てこなくて、あんた、次の日も泣いてた」

「……覚えてない」

「覚えてないでしょうね。まだ五つだもの」

母親は靴下に手を伸ばしかけて、やめた。画鋲を抜くのは自分の役目ではない、とでもいうように。

「片っぽ、家にあるよ」

「え」

「捨てられなかったのよ。あんたがあんまり泣くから、いつか出てくるかもしれないと思って。押し入れの、雛人形の箱の横」

奏太は壁を見て、それから母親を見た。何か言おうとして、言葉が出ないらしかった。手のひらでこめかみを一度こすって、それだけだった。

都は、乾燥機のガラス越しに回り続ける自分の洗濯物を見ていた。見ているふりをしていた、と言ったほうが正しい。


「明日、持ってきます」

帰りぎわ、奏太はノートを開いて、〈7年前 9/2 赤 子ども用〉の行の隣に、初めて自分の名前を書いた。丸はまだつけていない。明日、相方が来てからつけるのだろう。

「そのあとは、どうするの」

都が訊くと、奏太は少し考えた。

「二枚とも、持って帰ります。棚から出したら、それはもう片っぽじゃないので」

そう言われて、都はようやく気がついた。あの壁は、失くしものの掲示板ではない。待合室だったのだ。

外に出ると、坂の下から夜風が上がってきていた。日中の熱が、アスファルトの底からゆっくり抜けていく時間だ。腕に抱えたかごの中で、乾いたばかりのタオルがまだ温かい。その熱が、シャツ越しに肋骨のあたりへじんわりと移ってくる。

都は坂を上りながら、姉に電話をかけようと思った。用件はない。靴下の話をするだけだ。七年前にもらった五足のうち、四足はもう履けなくなったこと。残った一足が、昨日、片っぽだけ帰ってきたこと。

坂の途中で振り返ると、〈まわりみち〉の窓だけが、ぽつんと明るかった。

あの光の中で、二十枚近い片っぽが、それぞれの相方を待っている。誰も迎えに来ないかもしれない。それでも、誰かが日付を書いて、洗って、干して、画鋲で留めている。

明日、そこから一枚が減る。

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まもなく第1話を公開予定です。