NOVLUM

記憶配達人

第一章「混入」

第11話「潮待ち」

公開:2026.07.10 ・ 2,845文字

潮待ち

覚えのない手つきを、体のほうが先に覚えている。玲はその朝、台所で、そのことに気づいた。

卵を、ひとつ割ろうとしていた。ふだんは縁に打ちつけて、親指の腹で二つに開く。今朝の手は、違った。卵を一度だけ軽く上下に振り、殻の腰のあたりを、指の第二関節で、こつ、と叩いた。ひびは横へまっすぐ走った。殻は、白身を一滴もこぼさずに、ふたつに落ちた。

玲の割り方では、なかった。

手を、見た。自分の手だった。爪の形も、指の節も、十七年見てきたものと同じだ。ただ、その手の中に、玲の知らない器用さが、一人分、増えている。上着の畳み方に始まって、これで二つ目だった。腕時計を持たない玲の左手首が、ときどき、何もない場所を、確かめるように裏返る。あれで三つ目かもしれない、と玲は思った。

数えるのを、やめた。数えても、減りはしない。

諏訪の声が、耳の奥で戻ってくる。近い相手は、弾かない。受け入れて、混ざる。混ざったものは、あとで、どちらがどちらか訊いても、答えが出ない。玲はゆうべ、その線を、自分の首に差した。読み損なえば二度目はない、と分かって差した。読んだ代償が、この手だった。

洗面台の鏡は、覗かなかった。記憶は持ち主の顔を映さない。だが今朝は、鏡のほうが、玲の顔に、別の男を映し返してくる気がした。


割った卵を、玲はそのまま流しに落とした。食欲は、朝から一度も来ていない。

テーブルに戻り、echoの欄を、また見た。数字は、ゆうべ缶が空になったきり、動いていない。ゼロは、増えも減りもしない。読み終えた荷物は、送り主の声だけを、玲の頭に残していった。

これを受け取るのは、きっと配達人だ。そういうふうに、送る。

男の言葉のうち、意味の取れる分は、繰り返し確かめた。宛名は書けない。書いた瞬間に死ぬ。正規の便には乗せられない。届け先は、ある——三つ数える橋の下だ。潮が引いたときにしか、開かない。

ゆうべまで、その一行だけが、辞書を引けない暗号だった。共有した時間のない人間には、合鍵の歯の形が、読めない。玲は配達人として、無数の宛先を運んできた。だが「三つ数える橋」という住所は、東京のどの区分にも、存在しない。

それが、今朝は、読めた。

論理で解いたのではなかった。混ざった側の記憶が、意味のほうを、先に握っていた。三つ数える、というのは、橋の名前ではない。子どもが、欄干の隙間から下をのぞいて、飛び降りるまでに数える三つだった。潮の引いた干潟に、コンクリートの段がひとつ、顔を出す。満ちれば沈み、引けば現れる、その段の上で、誰かが荷物を待つ。橋の名を、玲は知らない。けれど、欄干の錆の手触りと、下をのぞいたときの水の匂いを、玲の指と鼻は、もう覚えていた。

京浜運河の、いちばん奥。廃れた荷役の水路に架かった、名のない歩道橋だった。

玲は、その水路のことを、配達の帰りに何度も渡っている。渡っただけだった。橋の下に段があることも、その段が潮で隠れることも、一度も、考えたことがなかった。運ぶ側の人間は、荷物の隠し場所を、覚えない。

覚えていたのは、玲ではない。玲の中に入った、送り主のほうだった。


携帯が、テーブルの上で、短く震えた。

七尾の名が、光っていた。二度目だった。一度目は、ゆうべ、缶が空になった前後に鳴っている。玲は、そのときも取らなかった。画面の名を、玲はしばらく見ていた。取れば、若い声が、玲の知らない事件の話を、いくつか運んでくる。取れば、玲は、そのどれにも、半分しか答えられない。

いまの玲は、証言に立てない。頭の中に、他人の一日を入れた人間の言葉は、法廷では夢と同じ扱いを受ける。それだけではなかった。自分の手が、自分の知らない器用さで動く朝に、七尾を近くへ呼ぶわけには、いかなかった。薄い札で人を呼ぶと、呼んだ相手のほうから欠けていく。五年前に、玲は一度、それをやっている。

震えが、止んだ。留守番の欄に、一件、赤い印が残った。玲は、それを開かなかった。

送り主は、明日の刻を待っている。その待ち方が、いま、玲の胸の内側で、まだ続いていた。防波堤で時計を確かめていた、あの速い見方。時間がまだ残っていることを、確かめる見方だった。混ざった男は、玲の中でも、同じ仕草で、残りの時間を数えている。玲の脈より少し速い、他人の秒針が、体のどこかで、動いていた。


玲は、潮汐表を呼び出した。

海上保安の公開値だ。京浜運河の験潮所の、今日と明日の目盛りが、細い曲線で並んでいる。指で、明日の谷を探した。干潮。いちばん水が引く刻を、確かめようとした。

指が、画面に触れる前に、止まった。

整備手帳の隅に、鉛筆の字があった。玲のものではない、前の持ち主の字でもない。今朝の、玲の字だった。四時十二分、とだけ、書いてある。数字の払いに、見覚えのない癖があった。書いた覚えが、なかった。

玲は、その四桁を見たまま、潮汐表の谷に、指を落とした。

明日、四時十二分。運河がいちばん引く刻だった。

一致していた。

背筋の、首に近いあたりが、冷たくなった。脈が、ポートのすぐ下で、一つ、大きく打った。玲は書く前に、干潮の刻を、もう知っていたことになる。潮汐表を開いたのは、確かめるためではない。書いてしまった数字の、裏を取るために開いた。順番が、逆になっている。知ってから、調べていた。

同化とは、こういう形でも来るのか、と玲は思った。癖だけではない。予定が、記憶より先に、指を動かす。送り主は、明日の四時十二分に、その段が現れることを、知っていた。知っていた男の頭が、いま、玲の頭の中で、まだ、その刻を待っている。

段が現れる刻を知っているのは、送り主だけではない、と玲は思った。荷物を消しに来た連中も、同じ潮の表を読める。宛先のない荷物が、経由地の頭を抜けて、どこへ降りるのか。それを先回りする側にとって、干潮の四時十二分は、待ち伏せに、ちょうどいい刻だった。玲が受け取ったのは、波の音と、退路の消失と、もうひとつ——行かないという選択肢まで潰す仕掛けだった。行かなければ、段の上のものは、次の満ち潮で沈む。読める人間は、この世に、一人しかいない。

窓の外は、六月の、白みかけた朝だった。運河の水は、いまは満ちている。段は、どこにも見えない。

玲は、手帳の四桁を、指で一度だけ、なぞった。消さなかった。消しても、頭のほうには、同じ数字が残っている。紙より、頭のほうが、いまは確かな帳面だった。

行く、と決めたつもりは、なかった。決める前に、体が、時刻を控えていた。運ぶと決めた荷物を、玲はこれまで、途中で降ろしたことが、一度もない。それが、配達人に残された、たったひとつの筋だった。あとは、その刻に、体を運ぶだけだ。運ぶのは、玲の得意なことだった。ただ今回だけは、荷物の中身が、運ぶ本人の頭に、入っている。

明日の四時十二分。玲は立ち上がり、上着を手に取った。

袖を内側に折り込み、裏地を外にして、二つに畳もうとする手を——今朝は、止めなかった。