NOVLUM

もう一度、八月

第一章「四月の再会」

第3話「四月の珈琲」

公開:2026.05.13 ・ 2,922文字

四月の珈琲

四月の朝は、まだ薄手のコートが必要だった。

槙は月島のマンションの四階で目を覚まし、窓の外を見た。隅田川の上を、薄い雲が東へ流れていく。水面は青を半分も含まず、灰と銀のあいだで揺れていた。スマートフォンを充電器から外して、メールを確認する。受信箱のいちばん上に、昨夜の名前があった。「群青書林 文芸第二編集部 工藤周」。

朝の九時前。早い、と思った。

文面は短く、丁寧だった。「企画書を添付いたします。お読みいただいたうえで、ご都合のよい日にお打ち合わせいただけましたら幸いです」。それだけの一行。仕事の連絡の作法として、過不足のない言葉だった。槙は息を吸って、添付ファイルを開いた。

A4で六ページ。表紙の題名を見て、指先が一瞬とまった。

『再読のための短編集——三十二歳の声』

声を出して読み上げそうになって、槙は唇を結んだ。三十二歳。今の自分の年齢だった。偶然なのか、意図なのか、すぐには判断がつかない。

企画の骨子はこうだった。三十代に入った五人の女性作家に、二十二歳のころに書いた短編を選んでもらい、いまの視点からの自註を添えて一冊にする。再読の本、と銘打たれていた。装幀は静秋社系列のデザイナーを当てる想定で、写真はモノクロ、紙は薄め。担当編集として、槙の名前が仮置きで上がっていた。

仕事として、いい企画だった。題材は読者に届く。執筆候補に上がっている五人は、いずれも槙が顔と文章を知っている人たちだった。葉山と組んでもおかしくない作家たち。声がけのしやすさも、自分の手の中にある人脈で済む範囲だった。仕事として、いい。仕事として、いいのだ。

ただ、二十二歳のころに書いた短編、という前提が、頭の奥でかすかに痺れた。

槙の二十二歳は、周と別れた年だった。

メールに「明後日、神保町でお打ち合わせいかがでしょうか」と返信した。送信ボタンを押す前に、文面をもう一度読んだ。冷たすぎないか。柔らかすぎないか。結局、句点をひとつだけ変えて、送った。


二日後、神保町の路地裏に立っていた。

指定された喫茶店は「つかさ亭」だった。古書店通りから一本入った、看板の塗装が剥げかけている店。木製のドアの上に、磨りガラスの切り文字で店名が貼ってある。槙はドアの前で、一度だけ深く息を吐いた。

ここを、知っていた。

大学三年のころ、毎週この店に来ていた。槙と周のふたりで。文学部のサークル仲間と、ときどき。珈琲が安くて、長居しても誰も嫌な顔をしない店だった。卒業して上京を続けてからは、足が遠のいた。たぶん、十年ぶりだった。

周はそのことを、覚えているのだろうか。覚えていて、ここを指定したのだろうか。あるいは、覚えていないのか。

ドアを押すと、頭上のベルが、からんと鳴った。

店の奥のテーブルに、周がいた。すでに座っていた。ノートとファイルを広げ、カップから湯気が立っている。槙の姿に気づくと、軽く立ち上がって会釈した。

「お待たせしました」

「いえ、いま来たところです」

席に着いて、メニューを見るふりをした。本当はメニューなど、とっくに頭に入っていた。それを悟られたくない、と思って、視線をしばらく文字の上で泳がせた。

「企画書、お読みいただけましたか」

「はい。とてもおもしろい題材だと思いました」

「ありがとうございます」

ホットを注文してから、二人は企画書の話に入った。執筆候補の五人について、誰から声をかけるか、テーマの幅をどこまで広げるか、初校締切は秋ごろを想定したい——ひとつひとつの議題に、槙は仕事の顔で答えた。周も仕事の顔で受けた。声の温度は、十年前のそれとは、まったく別のものだった。

「自註は、書き下ろし二千字程度を想定しています」と周が言った。「二十二歳のころの自分の文章を、いまの作家が読み返して、何を思うか。そこにあえてラベルは付けません。後悔でも、肯定でも、無関心でも、出てきた言葉で受ける」

「テーマを縛らない、ということですね」

「縛ると、たぶん編集者の都合が透けます」

槙はうなずいた。それは槙が普段、自分の担当作家に対して大切にしていることでもあった。同じ仕事の感覚を、十年経って、別の場所から確認した気がした。

ただ、テーブルの脇に置かれた周のシャープペンの動かし方、ノートの罫線をまっすぐに引く癖、それだけは同じだった。鉛筆の芯がいちど折れたとき、机に当てて軽く整える仕草も。十年前、同じテーブルで何度も見ていた手の動きが、いまも、同じテーブルで動いていた。

「装幀は、奥さまにお願いされるご予定ですか」

槙がそう尋ねると、周の指先がほんの一瞬だけ止まった。

「いえ。妻には、別ラインの仕事を進めてもらっています」

「そうでしたか」

それ以上は訊かなかった。訊いてはいけない、と判断した。

打ち合わせは一時間で終わった。槙は手帳に主要な日付を書き込んだ。書きながら、自分のペンの先がほんの少しだけ震えているのに気づいた。冷えはじめた珈琲を一口含み、息を整えた。仕事の場で、こんなことはほとんどない。

「では、来週末までに執筆候補の方々にご打診のメールをお送りします」

「お願いします」

席を立ち、コートを羽織った。会計のレジに、二人で並んだ。

「あら、いつもの席ね。お久しぶり」

レジの中の女性が、そう言った。

白髪の混じった、ふくよかな女性だった。十年前と、ほとんど変わっていなかった。槙の心臓が、ひとつ強く打った。

「——おひさしぶりです」

槙は、それしか言えなかった。

「お二人で来てくれるのも、ずいぶん久しぶりねえ」

何気ない一言だった。レジの女性の中では、ただの懐かしさだった。槙の隣で、周が表情を消した。表情を消すという、昔から彼の癖が、また出た。

店を出て、路地に立った。四月の昼の光が、二人のあいだにまっすぐ落ちていた。

周は、しばらく何も言わなかった。

槙も、何も言わなかった。

「気づいていましたか」

先に口を開いたのは、周のほうだった。

「はい」

「私もです」

それだけの、短いやり取りだった。「申し訳ない」とも「懐かしいですね」とも、どちらにも倒れない言葉を、二人とも選ばなかった。

会釈をして、別々の方向へ歩き出した。槙は古書店通りのほうへ、周は駅のほうへ。十歩ほど進んでから、振り返らないと決めた。決めたのに、足の裏が、ほんの数秒だけ、舗道に貼りついて動かなかった。

四月の風が、路地の奥から吹いてきた。珈琲の香りが、まだコートの繊維に、薄く残っていた。

夕方、月島の部屋に戻ってから、槙はテーブルの上の名刺の隣に、企画書のプリントを置いた。表紙の題名を、もう一度、声に出さずに目で追った。三十二歳の声。誰の声で読まれるのか。執筆候補の作家たちの声か、それを編む自分の声か、あるいは——もうひとり、思い当たる声があった。

スマートフォンが、卓上で短く震えた。

差出人は、葉山涼太だった。

「槙さん、ちょっと相談があるんだけど」

メールはそれだけで、用件は書かれていなかった。葉山がこの書き方をするときは、たいてい、本人のなかでも整理がついていないときだった。

槙は返信しなかった。返信を保留した自分に少し驚いて、画面を伏せた。

窓の外で、川の上を渡る風の音が、まだ昼間より高く鳴っていた。