第一章「四月の再会」
第9話「装幀の名前」
公開:2026.06.24 ・ 2,926文字
装幀の名前
木曜の十四時、つかさ亭の扉を、もう一度引いた。
槙は店の中ほどで一度だけ立ち止まり、店主のまなざしを、軽く受けた。先週の月曜に浅井詠子と座った窓辺の席は、今日はあえて選ばなかった。同じ席に同じ週の同じ店で二度座ることを、自分の指先が、薄く拒んでいた。窓側ではなく、ひとつ手前の、二人がけのテーブル席に着いた。
時計は、十三時五十二分を指していた。早すぎる到着には、理由がなかった。理由のないままの八分間を、ノートを開かずに過ごした。手ぶらの八分間を、自分に許せるくらいには、今日の朝の自分を整えてきたつもりだった。
梅雨の途中の店の中は、外より一段、湿度が低かった。カウンターの奥で、店主が湯を細く落としていた。深煎りの匂いが、薄く、テーブルのうえに届いていた。
十四時の二分前に、扉の鈴が、ひと音だけ鳴った。
「お待たせしました」
周は雨上がりの薄い湿りを、上着の肩の片側に残したまま、向かいに座った。コートを掛ける動作も、椅子を引く角度も、十年前と変わらなかった。変わらないことの内側に、十年ぶんの距離があることが、槙にとっては十年前からの発見だった。
「いえ。私もいま、来たところです」
珈琲をふたつ頼んだ。周も、ノートではなく、薄いファイルを机のうえに置いた。
「まず、仮題の件、伺いました」と周が言った。「『三十二歳のあとの声』、で承りました。短編集全体の仮題は、『三十二歳の声』のまま据え置く、こちらでも合意しました」
「ありがとうございます」
「いい副題だと、こちらの編集長も申しておりました」
周はそこでひと呼吸ぶん間を置いた。仕事の話を、仕事の声で運ぶときの、彼の癖の置き方だった。十年前、槙はこの置き方が、少しだけ苦手だった。いまは、心地よかった。
「それでは、もうひとつ」
ファイルの中ほどから、薄いA4が一枚、机のうえに引き出された。周はそれを、机のうえで槙のほうへ静かに滑らせた。
「装幀候補リスト」と、上部に小さく印字されていた。三名の名前が、横並びに置かれていた。
槙は、上から順に視線を落とした。
二番目の行に、知っている名前があった。
工藤凛子。
槙は、視線をその四文字のうえで、半呼吸ぶん止めた。止めてから、もう一度、上の名前、下の名前、と、視線を流した。流し終えて、紙のほうから視線を上げた。
「候補の、ひとつとして」と周が言った。「妻の名前が、上がっています」
声の温度は、仮題の話のときと、ほぼ同じだった。同じであるように整えていることは、槙には判った。彼の声の整え方は、十年前から、整えていることが分かる類のそれだった。
「お話しいただいて、ありがとうございます」と槙は言った。事務の声を、まず先に通した。「候補の判断は、御社の編集長と、装幀担当のご判断ですか」
「最終的には、そうです。ただ、こちらの編集部としては、共同企画である以上、貴社側、つまり高橋さんの感覚も、お聞かせいただきたい、と思っています」
「私の、感覚、ですか」
「ええ。三名の作風と、短編集の手触りとの相性について、編集者としての高橋さんが、どう感じるか。聞かせていただきたい」
槙は、紙に視線を戻した。三名の名前のうち、上下の二名は、槙も仕事で名前を知っていた。装幀のスタイルも、おおまかに頭に入っていた。真ん中の四文字だけが、頭のなかに、まだスタイルの像を持っていなかった。あえて、持たないようにしてきた像だった。
「凛子さんの最近のお仕事を、私は、あまり拝見していません」
「では、サンプルを、お送りします。判断は、それからで結構です」
「ありがとうございます」
珈琲が運ばれてきた。槙は両手でカップを包んだ。表面はまだ、ほんの少しだけ熱かった。指の腹に、熱が伝わった。伝わった熱の上に、首筋のあたりの、別の熱が、薄く重なった。包む手の指の付け根が、ひと呼吸ぶん、強張った。強張ったことを、湯呑みの陰に隠した。
「工藤さん」と槙は言った。「ひとつ、伺ってもいいですか」
「どうぞ」
「凛子さんのお名前を、候補に入れることは、ご本人にはお話しになっていますか」
周は、ペンの先で、ファイルの縁を一度だけ撫でた。
「話しています」
「そうですか」
「妻からは、『その編集者の方が、私の名前を見ても表情を変えない人なら、進めて構わない』と、返事をもらっています」
槙は、湯呑みを置いた。置いてから、息を、ひと呼吸ぶん預けた。預けてから、ゆっくり吐いた。窓のほうで、雨が一度、軒先のひさしを叩いた。ひと粒分の音だった。
「表情、変えなかった、と、お伝えください」と槙は言った。
「伝えます」
「ただ、ひとつだけ」
「はい」
「サンプルを拝見したうえで、私の感覚として、相性が違うと判断した場合は、その通り申し上げます。それは、お名前と、関わりなく」
「それは、こちらが、お願いしている話です」
周は会釈をした。槙も会釈をした。会釈の角度は、ほぼ同じだった。同じであることに、二人とも、気づいていた。気づいていることを、互いに口にはしなかった。
それから三十分ほど、二人は、編集スケジュールの細部を詰めた。執筆者三名への日程連絡のタイミング、初校の戻り、束見本の上がりまでの逆算。仕事の話を、仕事の声で、二人で進めた。手のうえのカップは、いつのまにか冷めかけていた。冷めかけた珈琲は、含んだあとに、口の中で、最初の温度の輪郭だけを残した。
会計の段になって、周がファイルを閉じる手を、半秒だけ止めた。
「高橋さん」
「はい」
「来週金曜の合同打ち合わせのあと、お時間、いただけますか」
仕事の声ではなかった。仕事の声から、ほんの一段だけ低めに落とされた、別の声だった。
槙は、湯呑みの底に残った、最後のひと滴を見ていた。
「お話の中身を、伺ってもよろしいですか」
「装幀の話の続きでは、ありません」
周はそれだけ言って、ファイルの背を、揃え直した。中身を、いま明かさないことを、彼は彼の流儀で示していた。十年前と、同じ示し方だった。
槙は答えを、すぐには返さなかった。返さない数秒のあいだ、店の奥で、店主が新しい豆を挽き始めた。低い、規則的な音だった。音の規則のあいだに、自分の呼吸が、半拍だけ遅れて入った。
「——少し、考えさせてください」
「もちろんです」
会計を済ませ、扉のほうへ歩いた。鈴が、入ったときと同じ音色で、ひと音だけ鳴った。外に出ると、雨はもうやんでいた。すずらん通りの石畳が、夕方手前の光を半分だけ受けて、ところどころで光っていた。
「では、また」と周は言って、駅とは反対側の方角へ歩いていった。彼の歩幅は、十年前より、ほんの少しだけ広かった。広くなった理由を、槙は知らなかった。知らないままで、いいことだった。
槙は反対方向に歩き出し、十歩ほどで、振り返らずに、ノートを開いた。ペンで、一行だけ書いた。
「来週金曜のあと、お時間」。
書いた文字の隣に、二文字、書き足した。
「装幀」。
横線を引き、その下に、もう一行、書いた。
「ではない」。
ノートの白い余白の、隅のほうに、自分の今日の判断の輪郭を、文字で、置いた。置いてから、ノートを閉じ、月島の駅のほうへ歩き出した。傘の柄を握る指の付け根に、まだ、午後のはじめの熱が、薄く残っていた。