SFサスペンス / 短編
無人駅の三時
作:NOVLUM編集部 ・ 開始 2026.05.10 ・ 最終更新 2026.05.10
音声タグ付けの仕事で渡された、三十秒の雨音。再生するたび輪郭を増す女の声は、やがて自分の声になる——
無人駅の三時
「ハル」と、その女は呼んだ。 三度目の再生で、声の主が自分だと、倉本は気づいた。
五月十日、午前二時四十二分。新宿のワンルームの窓は、半分ほど開いていた。デスクの右隅で、加湿器の白い湯気が細く立ちのぼり、ヘッドフォンの片耳だけが外れている。 倉本真名は、波形ソフトの画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。スピーカーから流れる雨音だけが、深夜の部屋を満たしていた。三十二歳。フリーランスになって四年目。同居人はおらず、観葉植物さえ三度枯らしてやめている。
倉本の本業は、音声タグ付けである。 AIの学習素材として、三十秒から二分の音源に「環境音」「人声」「機械音」「無音」のラベルを振り分けていく仕事だ。週末は深夜にまとめて作業し、平日の朝に納品する。月十二万。家賃と光熱費を払うと、本を二、三冊買って、それで終わる。会社員時代の半分にも届かないが、誰の声色も気にしなくていい暮らしは、思ったより悪くなかった。
今夜は十二件中の九件目だった。 クライアントは穹音技研。聞き覚えのない会社で、二週間前に取引が始まったばかりである。ファイル名は unmanned_st_03.wav。依頼書の補足は短い。「南総信濃線 初音町駅/不要部分の整音、および環境音タグ付け」。 倉本は、ワークフロー通りに、波形を三分割して、左から順に聴いていった。
最初の十秒は、雨音だけ。 中盤の十秒で、遠くから踏切の警報が、ゆっくり近づいてきて、また遠ざかった。 最後の十秒に、人の足音が、二歩。 それから、低い女の声。
低い女の声。
倉本は、波形の山を見た。声の高さは、二百ヘルツの少し手前。自分の話し声の中央値と、ほとんど一致している。 「気のせいだ」と、声に出してみた。声に出したものは、自分の耳には、いつも他人よりすこし低く聞こえる。それでも、波形の山は、声に出した自分の波形と、なめらかに重なった。 波形を重ねるたび、深夜の部屋の輪郭が、少しずつ細くなっていく気がした。
二度目の再生をかける。 雨。踏切。足音。声。今度は、声の輪郭が前回より明瞭だった。 「は」と、その女は言っていた。「は」ではなく、はっきり区切られた「ハ」。
倉本は再生を止めて、ヘッドフォンの位置を直した。指先が、わずかに冷たい。 窓の外で、五月の風が、近所のベランダに干された洗濯物を、一度だけ揺らした。風には、夜明け前の生臭さが混じっていた。新宿でもこの時間だけは、街より川のほうが近く感じる。
三度目。 今度は再生速度を半分まで落として、声の塊だけを、慎重に拾うことにした。 雨。踏切。足音。声。 「ハル」と、その女は呼んだ。 「ハル、まだ、いるの」
声の主は、自分だった。
倉本は、マウスから手を離して、画面の灰色の余白を見つめた。 喉の奥に、胃酸が一瞬上がってくる感じがした。背中に、薄い汗が滲んでいる。 キーボードの『R』のキーが、少し沈んだままになっていた。さっき、押し込みすぎたらしい。
画面の右上、ファイルのプロパティを開いた。 録音場所のメタデータは、空欄。 録音日時も、機材IDも、空欄。 ハッシュ値だけが、十六進数の長い文字列で、静かに記載されていた。 倉本はそのハッシュをコピーして、ふだん使っているクライアントの納品履歴に貼り付けてみた。同じハッシュは、ヒットしなかった。半年分の納品ファイルの、どれにも一致しない。
別のタブで、地図サービスを開いた。 南総信濃線の初音町駅を検索する。 廃駅、と、最初の検索結果が告げた。四年前の三月に廃止。線路は撤去され、跡地は、いま小学校の通学路になっている、と。当時の駅舎の写真は、白い屋根の小さな無人駅で、屋根の縁に錆が走っていた。倉本は、写真の屋根を、覚えているような、覚えていないような気がした。たぶん、覚えていない。 四年前といえば、勤めていた制作会社を辞める少し前だ。深夜にひとりで電車に乗って、終点まで行って戻ってくる、ということを、当時は週に二度ほど繰り返していた。一度くらい、初音町という名前の駅を、誰かを思い浮かべながら通り過ぎたかもしれない。けれど、降りたことはなかったはずだ。「降りたことはなかったはず」という、その曖昧さが、いまの倉本には、むしろ怖かった。
椅子の背中に、ゆっくり体を預けた。 それから、依頼元の会社情報のリンクを叩く。穹音技研のページは、サーバーが応答しなかった。リンクをもう一度叩く。三度目で、ブラウザは短く返した。 「該当のページはありません」
法人検索のサービスでも調べた。同名の法人は、見つからなかった。代わりに、よく似た名前の旅行代理店と、廃業した楽器店だけが、検索結果の下のほうに並んでいた。
廃止された駅。 存在しない会社。 録音場所も、日時も無い、三十秒のWAVファイル。 それと、「ハル」と呼ぶ、自分の声。
倉本は、連絡先アプリを開いた。 「ハ」の段で、検索を狭めていく。「ハル」の音で始まる名前は、ひとつしかなかった。 ライターのハルさん。明日、午前九時に初顔合わせの予定が入っている、新しい仕事相手だ。先週、編集者からの紹介メールで名前だけを知った。彼の声を、倉本は一度も聞いたことがない。担当領域は「夜の街と公共交通」のルポ。最初の打ち合わせは、近所のチェーン喫茶でということになっている。 紹介メールの本文には、こう書かれていた。「ハルさんは雨が苦手で、傘を忘れがちなので、ご注意ください」。半分は冗談、半分は本気の、編集者らしい添え書きだった。
知らない人の名前を、自分の声が、四年前の駅で呼んでいた。
倉本は、深呼吸を二度した。それから、いつもの音声フォーラムに、匿名の投稿を打ち込みかけた。 「身に覚えのない録音に、自分の声が混じっていた経験のある方、いますか」 打ち終える前に、その文を全部消した。誰かに信じてもらうための語彙を、倉本はもう何年も使っていなかった。 代わりに、ヘッドフォンの音量を上げて、もう一度だけ、雨の十秒目を再生した。今度は、足音と声のあいだに、別の音が、ごく小さく挟まっているのが分かった。傘が一本、開く音だ。プラスチックの骨が、布地を押し広げるときの、あの細い「ぱさり」。倉本のヘッドフォンの中で、自分の声は、その傘の下から、誰かに呼びかけていた。
倉本は、ファイル unmanned_st_03.wav を右クリックした。 削除を選ぶ。確認のダイアログが出る前に、画面のフォルダから、ファイルがふっと消えた。 代わりに、同じフォルダの一段下に、unmanned_st_04.wav という名前の、新しいファイルが現れた。 タイムスタンプは「2026-05-10 09:07」。明日の朝、九時七分。 ファイルサイズは、ゼロバイト。中身は空。けれど、確かに、そこにあった。
倉本は、息を吸って、しばらく止めた。
机の上で、スマートフォンが、一度だけ低く震えた。
通知の差出人欄を見て、倉本は息を吐くのを忘れた。 差出人:倉本 真名(自分自身) 件名:明日のハルさんへ
メッセージアプリには、「予約送信」の機能がある。 差出人を自分自身に設定して、未来の自分宛てに、メモを送れる機能。倉本も、半年前まではよく使っていた。最後に予約を入れたのが、いつだったかは、もう思い出せない。たしか、母の命日に「線香を切らさないこと」と書いた。それが、最後だったはずだ。
通知をタップして、本文を開いた。
明日のハルさんに、傘を貸してはいけません。 理由はあとで分かります。 これは、わたしからの最後のお願いです。
——わたし
倉本は、本文を二度読んだ。三度目は、もう読まなかった。 代わりに、送信予約の日時を確かめた。 予約日時:2026-05-10 02:59:59。 作成日時の欄は、グレーアウトしていて、タップしても反応しなかった。
デスクの右下の時計は、二時五十九分五十九秒のまま、秒針が止まっていた。 止まっている、というより、次の一秒へ進む気配だけが、永遠に保留されているようだった。
倉本は、自分の文字癖を思い返した。「最後のお願い」という言い回しを、自分はあまり使わない。けれど、まったく使わないわけでもない。父が亡くなる三日前、病室の白い壁に向かって、確かに一度、口にした。誰にも聞かれていないと思っていた。
倉本は、椅子から立ち上がって、窓の外を見た。 新宿の通りに、街灯のオレンジが、滲んでいる。 雨は、まだ降っていなかった。
それでも、雨の匂いだけが、五月の夜の空気に、ほんの少し混じっていた。アスファルトの記憶のような、湿った金属の匂い。
倉本は、玄関の傘立てに、目を移した。 先週買ったばかりの、明るい黄色の折り畳み傘が、まだ鞄に入っていない。明日の天気予報は、午前から雨。降水確率は六十パーセント。 ハルさんは、午前九時に、来る。 午前九時の、七分後に、新しいファイルが、自分のフォルダに、届く。
倉本は、傘立てから黄色い傘を取り出した。 廊下の灯りの下で、傘の柄に、自分の指紋が、薄く曇って残っているのが見えた。先週、雨上がりの夜に、コンビニの前で開いて、開けたまま少しだけ歩いた。ほんの十歩ほど。あの十歩は、誰のためでもなかった。 倉本は、その傘を、ベッドの下に、そっと押し込んだ。 押し込んでから、自分の手が、少し震えていることに気づいた。 震えているのは、寒さのせいではなく、たぶん、四年前の自分が、今夜の自分にお願いした、その丁寧さのせいだった。
それから、もう一度、窓の外を見た。
最初の一粒が、街灯のオレンジを横切って、アスファルトに落ちた。 二粒目が、続いた。 三粒目から、もう数えるのをやめた。
倉本は、ヘッドフォンを、両耳にしっかり戻した。 ベッドの下で、黄色い傘が、暗い影に隠れて見えなくなっている。見えていないのに、その傘が「そこにある」ことだけが、いま部屋でいちばん確かなことのように感じられた。 廃駅の雨音が、画面の中で、まだ、細く鳴り続けていた。 やがて、窓の外の雨と、ヘッドフォンの中の雨が、ほとんど同じ音になっていく。 倉本は、目を閉じて、その重なりを、もうすこしだけ、聴いていた。
エピソード一覧
まもなく第1話を公開予定です。