SFサスペンス / 短編
無痛の合図
作:NOVLUM編集部 ・ 開始 2026.09.20 ・ 最終更新 2026.09.20
痛みの信号を手前でせき止める試験機〈{堰|せき}〉。どちらの設定で動いたかは、十二週が終わるまで誰も知らない決まりだった。ところが被験番号二十七——十七歳の{鹿子木|かのこぎ}{茜|あかね}だけが、十八回すべてを言い当てている。偶然なら二十六万分の一。盲検はどこで破れたのか。そして彼女は、なぜそれを黙っていたのか。
無痛の合図
「今日は、効いてます」
鹿子木茜は右膝のベルトを緩めながら、そう言った。記録用紙へ伸ばした手の、ボールペンの先が数字の欄で一度だけ迷う。
「三にします」
八坂千寿は壁の時計を見た。十六時三十二分。装着からちょうど三十分が経っている。
「先週の火曜は、七でしたね」
「はい。今日は三です」
差し出された用紙の字は、十七歳にしては角のはっきりした字だった。
第二診察室には窓がひとつある。九月の午後の光がブラインドの隙間を抜けて、床に細い線を何本も引いていた。千寿はその線をまたぎ、茜の膝から器械を外す。試験機〈堰〉——掌ほどの大きさで、膝の少し上に巻きつける。痛みの信号が背中を上っていく手前で、それをせき止める。そういう触れ込みの機械だ。
〈堰〉には顔がふたつある。本当に信号を止める設定と、同じ感触の微弱な電流だけを流して何も止めない設定。今日がどちらだったかは、器械の中に封をしたまま、十二週の試験が終わるまで誰も開けない。被験者も知らない。立ち会う千寿も知らない。それが二重盲検という決まりである。
茜は椅子に浅く座り直し、左の足首を右の足首に絡ませるようにして、脹脛のあたりを軽く擦った。痛いのは右のはずだ。千寿は一度だけそちらを見て、すぐ用紙に戻った。長く座っていれば、誰の足でも同じことになる。
「来週も火曜と金曜で大丈夫?」
「はい。金曜は部活が休みなので」
「部活、何だっけ」
「書道です。立たなくていいので」
茜はそう言って笑った。笑うとまだ中学生のような顔になる。
この子は杖を使わない。右足をわずかにかばう歩き方をするだけだ。三年前、自転車で車の左前に触れた。骨はきちんとくっついたのに、痛みだけが残った。そういう人が一定の割合でいる、と最初の外来で説明されたとき、彼女は「わたし、その割合なんですね」と答えたらしい。担当医の記録にそう書いてある。
扉が閉まる音を聞いてから、千寿は用紙の束を揃えた。
「八坂さん、ちょっと来て」
データ管理室の堂島に呼ばれたのは、その週の木曜だった。〈朝比野臨床研究センター〉の三階は、空調の音のほかに何も鳴らない。堂島は画面に折れ線を二本出していた。
「四十二人ぶん、九週目まで集計した。これが全体の平均だ」
一本はゆるやかに下がっている。もう一本もゆるやかに下がっている。二本の隙間は、指一本ぶんもない。
「効いてるのか効いてないのか、まだ分からん。普通はこうなる」
「そうですね」
「で、これが一人ぶん」
堂島が別の画面を出した。二本の線が、はっきり離れている。片方は谷へ落ち、片方は高いまま横へ伸びていた。素人が見ても効果があると分かる形だった。
「被験番号、二十七」
千寿は息を吸った。鹿子木茜の番号である。
「綺麗すぎる」堂島は椅子を回して千寿のほうを向いた。「十八回。全部だ。止めた日だけ数字が下がって、止めてない日は下がらない。一度も外していない」
「偶然ということは」
「二十六万分の一だ」堂島は机を指で二度叩いた。「どこかで盲検が破れてる」
空調の音が、急に大きく聞こえた。千寿は口の中が乾いているのに気づいて、一度だけ唾を飲んだ。
破れているなら、二十七番の記録は使えない。それだけでは済まない。破れた道が施設の手順そのものにあるのなら、四十二人ぶん全部が疑われる。三年かけた試験が、一枚の折れ線で終わる。
千寿は五年前の試験を思い出していた。あのときは八週目で薬剤の取り違えが見つかり、百二十人ぶんの記録が一晩で紙屑になった。説明文書を読み上げた相手の顔を、千寿は今でも半分は覚えている。覚えているのに、誰にも何も返せなかった。
「心当たりは」
「ありません」
「じゃあ、探して」堂島は画面を消した。「二日やる。出なかったら、上に上げる」
その夜、千寿は〈堰〉を三台、机の上に並べた。
臨床工学技士の三隅を残業に巻き込み、考えつくかぎりを潰していった。動作音は、十二キロヘルツまで拾えるマイクで録っても両設定に差が出ない。重さは〇・一グラム単位で同じ。三十分連続で回したあとの表面温度も、赤外線の計器では区別がつかなかった。停止のしかたも同じで、どちらもランプが二度瞬いて切れる。
「外からは無理ですね」三隅は眠そうに欠伸をした。「ていうか、八坂さんも知らないんでしょう。割付」
「知らない。開けられるのは統計の外部委託だけ」
「じゃあ、漏らしようがないじゃないですか」
そのとおりだった。千寿が無意識に態度へ出していた、という筋も消える。知らないものは漏れない。
千寿は三台の〈堰〉を見下ろした。説明文書に書かれた副作用は三つ。装着部の赤み、かゆみ、まれに軽い頭痛。どれも右膝の話だ。
「三隅くん。これ、電気はどこへ抜けるの」
「抜けるって」
「流した電流。戻る道」
三隅は少しのあいだ黙った。それから欠伸を呑み込んだ。
「……膝の、対極板です。そこで回収する設計になってます」
「全部?」
「全部のはずです。設計が正しければ」
千寿は机の上の三台を、順に指で触った。樹脂の殻は、どれも室温のとおりに冷たい。
「対側は、測った?」
「測ってません。測る理由がないので」
「明日、測って」
「何ミリアンペアの話をしてるか分かってます?」三隅は言いかけて、千寿の顔を見て、やめた。「……分かりました。いちばん感度のいいやつ、借りてきます」
金曜日、千寿はいつもより早く第二診察室に入った。
茜は制服のまま、十六時五分前に来た。ベルトを巻き、三十分を待つ。その三十分のあいだ、彼女はいつも参考書を開くか、窓の外を見ているかのどちらかだった。今日は膝の上で手を組んでいる。
窓の外では、駐車場の欅が半分ほど色を変えていた。風が出ているらしく、枝先が同じ向きに傾いでは戻る。茜はそれを見ている。千寿は記録用紙の角を、意味もなく指で揃えた。
聞けば、茜は試験から外れる。外れれば、この三十分もなくなる。分かっていて聞くのだと、千寿は自分に言い聞かせた。五年前に何も返せなかったぶんを、ここで返すのだとも思った。どちらも嘘ではなかったし、どちらも、聞きたくない理由にはならなかった。
二十五分が過ぎたところで、千寿は口を開いた。
「鹿子木さん。今日は、どっちだと思う」
茜の肩が、ほんのわずかに動いた。
「……当てたら、怒られますか」
「怒らない」
「今日は、効いてるほうです」
「どこで分かるの」
茜は少し考えて、それから、左足を前へ出した。装置を着けていないほうの脚だ。
「こっちが、しびれるんです」
千寿は自分の指先が冷たくなるのを感じた。
「五分くらい経つと、左の脹脛に、薄く。正座したあとの、いちばん軽いやつくらい。効かない日は、それが来ません」
「……いつから」
「二週目です」
「二週目」
「はい。最初は、座り方が悪いんだと思ってました」茜は自分の左足を見下ろしている。「でも、来る日と来ない日があって。来た日は、右が軽くなる。三回続いたところで、たぶんそうなんだろうって」
千寿は用紙を持つ手に、力が入っているのに気づいて、指を開いた。二週目。七週間、この子はそれを抱えて火曜と金曜に通ってきた。
三隅の測定は、翌週の月曜に出た。信号を止める設定のとき、流した電流のごく一部が身体を回って対側の下肢へ抜けていた。設計上、そこまで届くはずのない量である。届くはずがないので、誰も測っていなかった。
盲検は、どこかで誰かが漏らしたのではなかった。機械そのものが、毎回、被験者の左足に合図を送っていたのである。
堂島はその報告を読んで、長く息を吐いた。手順に穴は無い。施設の責任ではない。ほかの四十一人は左足のことを一度も口にしていないから、記録はそのまま生きる。
「助かった」と堂島は言った。それから、画面をもう一度だけ出した。
「ただ、まだ説明がついてない」
「二十七番ですか」
「左足で分かったとして、だ。分かったから痛みが半分になる、というものじゃない。合図に気づいた人間の数字は、普通はこうなる」
堂島は指で、二本の線のあいだに細い隙間を描いた。
「せいぜい、これくらい離れる。彼女のは、離れすぎだ」
千寿は画面の谷を見た。落ちすぎた線が、そこにあった。
十月の第一週。千寿は茜と、いちばん小さい面談室で向かい合った。
「二十七番のデータは、全部使いません。試験からも外れてもらう」
茜はうなずいた。想像していたのだろう。表情がほとんど動かなかった。
「ひとつ、聞かせて」千寿は用紙の束を机に置いた。「どうして、黙ってたの」
茜の睫毛が下がった。指が、スカートの裾を一度だけ握る。
「言ったら、外されるからです」
「痛くない三十分が、欲しかった?」
「それも、あります」
「それも?」
茜は顔を上げた。目のふちが赤い。それでも声は、記録用紙の字と同じでまっすぐだった。
「差を、大きくしました」
千寿は動かなかった。
「効いてる日は、本当より少し低く書きました。効いてない日は、少し高く。五を四に、五を六に。そのくらいです。……そのくらいで、あの線は離れます」
「どうして」
「通ってほしかったからです」
茜は膝の上で両手を重ねた。右の膝だ。
「外来の待合に、わたしより長い人が何人もいます。十年とか、十五年とか。あの人たちの番のときに、この機械があるといいと思って。わたしはたぶん、間に合いません。治験が終わったら返すので」
面談室が静かになった。廊下を台車が通る音が、遠くで一度だけ鳴った。
千寿は自分の手のひらを見た。三年、この試験に付いてきた。四十二人に同じ紙を読み上げ、四十二回、同じ質問を受けた。効きますか、と誰もが聞く。分かりませんと答えるのが、この仕事だ。この機械が効くかどうかは、まだ誰も知らない。知らないままでいるために、これだけの手続きがある。
「鹿子木さん」
「はい」
「あなたが直した数字は、その待合の人を裏切ります」
茜の喉が動いた。
「離れた線を見て、通す。使う。十年待った人が着ける。そのときに効かなかったら、その人はもう一度、最初から待つことになる」
茜はしばらく黙っていた。それから、小さく息を吐いた。
「……はい」
「でも」千寿は封筒から一枚、抜き出した。三隅の測定結果だった。「あなたが左足のことを言ってくれたおかげで、この試験は全部やり直さずに済みます。副作用の記載が足りていなかった。設計が甘かった。それが九週目で分かった」
茜が顔を上げた。
「十八回、当ててましたね」
「……はい」
「あれが、この試験でいちばん正確な記録です」
茜の睫毛が、二度、激しく瞬いた。彼女は手の甲で目を拭い、それを見られたのが恥ずかしかったらしく、窓のほうを向いた。
「八坂さん」
「はい」
「わたしの名前、出ますか」
「出ません」
「よかった」茜は笑った。「出たら、お母さんに怒られるので」
翌年の春、同じ機械の試験がもう一度組まれた。
説明文書は一行だけ増えていた。装置を着けていない側の脚に、軽いしびれを感じることがあります——被験者にその紙を読み上げるとき、千寿はそこだけ、少し声を落とす。
なぜ落とすのかは、誰にも説明していない。
エピソード一覧
まもなく第1話を公開予定です。