序章「偽物の魔女」
第8話「名家の重さ」
公開:2026.06.16 ・ 3,287文字
朝の報せは、水鏡越しにやってきた。
寮の小部屋。机の上に置かれた掌ほどの銀盤に、薄く張られた水が揺れている。遠隔の通信を繋ぐ、ありふれた魔法の道具だ。けれど、その水面に映った顔を見た瞬間、俺は息を潜めて壁際に下がった。
セレナの父——アルベルト・グランハルト。炎将の異名を持つ、四大名家の当主。
水面の中の男は、眉ひとつ動かさなかった。
「学院に入って、ひと月だ」
声は低く、凪いでいた。怒鳴られるより、ずっと重い静けさだった。
「成績は」
セレナは、背筋を伸ばして銀盤の前に座っていた。名家モードの、微塵の隙もない姿勢で。
「実技は、上位に食い込んでおります」
「上位、とは。首席ではないのだな」
水面が、わずかに波打った。
「グランハルトの名は、二番手のためにあるのではない。お前の祖母は、入学のひと月で全課程を掌握した。母も、そうだった」
セレナの膝の上で、拳が握られるのが見えた。爪が、布を噛んでいる。
「……承知しております」
「火は」
短い、ひとことだった。
俺の心臓が、跳ねた。
火は。セレナの——火属性の魔法は。本来なら名家の令嬢が真っ先に誇るべき、その火は。
「……精進して、おります」
それだけ答えるのが、彼女の限界だった。アルベルトは、しばらく無言で娘を見ていた。やがて、水面の向こうで一度だけ、目を伏せた。
「グランハルトの名に恥じぬ行いをせよ」
通信が、切れた。
銀盤の水が、ただの水に戻る。
その日の午後の自主訓練で、セレナは、おかしかった。
人気のない裏庭。石垣に囲まれた、誰も来ない一角。俺たちが「偽物の魔法」をこっそり試すための、いつもの場所だ。
俺はリベリオを鞘から抜いて——ここでなら抜ける——空のマナを呑ませ、アルカナ・コーデックスへ送る。セレナがそれを受けて、火を灯す。本来は、それだけの訓練だった。
なのに、セレナは止まらなかった。
一発。二発。三発。
標的の丸太が焦げ、黒く爛れていく。彼女の額に汗が滲み、呼吸が浅くなっていく。アルカナ・コーデックスは、リベリオが送れる以上のマナを、無理やり絞り出そうとしていた。
「セレナ」
俺の声は、届かない。
「もっと。もっと送りなさい、カイル」
「これ以上は——」
「足りないの!」
裂けるような声だった。
「二番手じゃ、駄目なのよ。上位なんかじゃ、何の意味もないの。偽物でも——偽物だからこそ、誰より結果を出さなきゃ、わたしは、わたしは——」
彼女の杖の先で、火が膨れ上がった。
でも、それは歪つだった。芯のない、ただ大きいだけの炎。リベリオが送る以上の力を搾り取られたアルカナ・コーデックスが、悲鳴のように熱を帯びていく。セレナの握る掌が、赤く焼けはじめていた。
俺は、考えるより先に動いていた。
リベリオを投げ捨て、彼女の手から杖を払いのける。
炎が、霧散した。
「——っ」
セレナが、その場に膝をついた。荒い息。焼けた掌を、胸に抱え込むようにして。
「無茶するな」
俺は、彼女の前に膝を折った。
「火の大きさで、お前の親父さんが認めるとは思えない。少なくとも、お前が壊れて喜ぶ人じゃないだろ」
「……あんたに、何が分かるのよ」
俯いたまま、セレナが呟いた。声が、震えていた。
「名家の重さなんか、中級家庭のあんたに、分かるわけ——」
言いかけて、彼女は、口を噤んだ。
言いすぎた、という顔だった。けれど、謝る言葉は出てこない。素直になれないのは、いつものことだ。
「分からないよ」
俺は、素直に頷いた。
「分からない。でも、お前が一人で潰れていくのを黙って見てるのは、俺の役目じゃない。偽物の相棒でも、それくらいは分かる」
セレナは、答えなかった。
ただ、焼けた掌を、ぎゅっと握り締めた。
拍手の音が聞こえたのは、その時だった。
乾いた、軽い音。
俺たちは、弾かれたように振り向いた。
石垣の切れ目——誰も来ないはずの入り口に、一人の少年が立っていた。
銀髪を短く切り揃え、細身の体に仕立ての良い上着を羽織っている。端正な顔に、薄い笑みを浮かべていた。
ただ——目が、笑っていなかった。
「素晴らしい気迫でしたよ。思わず、拍手を」
声は柔らかく、丁寧だった。丁寧すぎて、逆に薄ら寒い。
「……誰」
セレナが、掌を隠しながら立ち上がった。名家モードの仮面が、一瞬で顔に戻る。
「失礼しました。ヴィクト・ゼフィリアと申します」
少年は、胸に手を当てて軽く頭を下げた。
ゼフィリア。風の名家。北大陸を治める、四大名家の一つ。
「今日は、学院の視察に。家の用事で、少し立ち寄らせていただいたのです。——偶然ですよ、もちろん」
偶然、と言う言葉の響きが、妙に耳に残った。
誰も来ない裏庭に、偶然、風の名家の後継者が立っている。そんな偶然が、あるものか。
ヴィクトの視線が、ゆっくりと動いた。セレナの顔から、焦げた丸太へ。そして——地面に転がった、一本の剣へ。
俺が投げ捨てた、リベリオへ。
心臓が、止まった。
「あぁ」
ヴィクトが、目を細めた。
「君のその剣、面白い形をしていますね」
時間が、凍りついた気がした。
何が面白いのか。ただの古い剣に見えるよう、祖父は何の装飾も施していない。はずだった。なのに、この男は——一目で、何かを見て取った。
俺は、さりげなく歩いて、リベリオを拾い上げた。
「……祖父の形見です。ただの、古い剣ですよ」
「なるほど。形見、ですか」
ヴィクトは、それ以上は踏み込まなかった。
薄い笑みのまま、ただ、俺の顔を見ている。値踏みするように。記憶に刻みつけるように。
「お邪魔しました。お二人とも、ご精進を」
彼は踵を返した。風が吹いて、銀髪を揺らす。石垣の切れ目を抜けて、その姿は消えた。
何も、追及されなかった。
何も、暴かれなかった。
なのに、背中に、冷たい汗が伝っていた。
「……何、あれ」
セレナが、掠れた声で言った。
「分からない」
俺は、リベリオを布で包み直しながら答えた。掌に、まだ冷たさが残っている。
「でも、気をつけたほうがいい。あいつは——見えてる」
何が見えているのか、俺にも言葉にできなかった。ただ、あの薄い笑みの奥で、何かが、確かに動いていた。俺たちの秘密の、尻尾の先を——あの男は、もう掴みかけているのかもしれない。
セレナは、焦げた丸太を見つめていた。
「……父に結果を見せなきゃ。なのに、こんなところで、秘密に気づかれたら——」
「一つずつだ」
俺は言った。
「全部一度に背負おうとするな。壊れる」
セレナは、何も言わなかった。
けれど、今度は、言い返してこなかった。それが、彼女なりの答えだったのかもしれない。
その夜、眠れずに図書館へ向かった。
昼間のヴィクトのことが、頭から離れなかった。あの男が何者なのか、せめてゼフィリア家のことを調べておきたかった。
書架の間を歩いていると、先客がいた。
セレナだった。
彼女も眠れなかったらしい。古い地誌の書を開いて、食い入るように読んでいた。俺が近づくと、彼女は顔も上げずに言った。
「ねえ、これ」
指が差していたのは、南極冠——氷漬けの大陸、グラキエスの記述だった。
巨大な氷床に覆われた、人の立ち入れぬ大陸。その一節に、こう書かれていた。
——一部の探検家が、氷の下に「人工的な構造物」を発見したとの記録あり。ただし未確認。
「人工的な構造物って、何かしら」
セレナが、呟いた。
「誰も住めない氷の下に。人が造ったものが、眠ってるなんて」
俺は、その文字を見つめた。
なぜか——胸の奥が、ざわついた。理由は、分からない。ただ、何か大きなものの端に、指が触れたような感覚だった。
「……さあな」
俺は答えた。答えになっていない答えだった。
窓の外で、夜が更けていく。
偽物の魔女と、偽物の剣士。名家の重さに押し潰されそうな少女と、それを支えることしかできない俺。
けれど、その夜、俺たちは知らなかった。
氷の下に眠るものが、やがてこの世界のすべてをひっくり返すことを。そして、薄く笑うあの男が、その扉の、思いがけぬ場所に立っていることを。
翌朝。
寮の扉の下から、一通の書状が差し込まれていた。
——上級訓練課程、参加者選抜のお知らせ。
序章は、終わる。
これから先に待っているのが何なのか、この時の俺には、まだ知る由もなかった。