本格ミステリー / 短編
最後の栞
作:NOVLUM編集部 ・ 開始 2026.06.07 ・ 最終更新 2026.06.07
古書店〈とまり木書房〉の常連だった老人の遺品から、同じ文庫本が三冊出てきた。買ったはずの十一冊のうち、八冊はどこへ消えたのか。目の見えない祖父はなぜ本を買い続けたのか——三枚の栞が、静かに答えを語り始める。
最後の栞
「同じ本が、三冊あるんです」
段ボール箱を抱えた娘は、挨拶よりも先にそう言った。
三上が顔を上げると、開け放した引き戸の向こうに、見覚えのない顔が立っていた。二十歳をすこし出たくらいだろうか。箱の重さに腕が震えている。慌てて帳場を出て、箱を受け取った。ずしりと沈む重さは、本をぎっしり詰めた箱に特有のものだった。
「買い取り、お願いできますか。祖父の本なんです」
娘は蓮見千夏と名乗った。その姓を聞いた瞬間、三上は箱の重さとは別のものを受け取った気がした。
蓮見朔太郎。〈とまり木書房〉の、いちばん古い常連だった。
毎月第一日曜、開店と同時に引き戸が鳴る。蓮見は決まって灰色の上着で、決まって店の奥までは入らず、帳場の前で立ち止まった。「あれを」とだけ言う。三上が包んで渡す。雨の日は傘の水を几帳面に切ってから入ってきて、会計のあいだに空模様の話をひとつだけした。それで終わりだった。長居をしない客である。そのくせ、帰りぎわに店の棚をぐるりと見渡していく目だけは、いつもひどく名残惜しそうだった。
晩年は、その目が本の背を追えていないことに、三上も薄々気づいていた。視線が泳ぐのだ。棚の文字の上を滑って、どこにも留まらない。それでも蓮見は毎月来た。来て、同じ本を買った。理由を訊いたことは、一度もなかった。客が本を買う理由を詮索しないのは、古本屋の礼儀だと思っていたからだ。
訃報は近所の床屋から聞いた。三週間前のことだ。七十八歳。眠るような最期だったという。三上は店を半日閉めて葬儀に行こうかと迷い、結局、行かなかった。常連といっても、交わした言葉は本の題名と天気の話くらいのものだ。遺族の輪に入っていく資格はない気がした。
その遺族のほうから、こうして店に来た。
「祖父がこちらによく来ていたと、日記にありました。とまり木さんなら、ちゃんと値段をつけてくれるからって」
「……ありがたい話です」
三上は箱を帳場の脇に運び、一冊ずつ取り出しはじめた。山岳紀行が数冊。将棋の定跡書。背の焼けた時代小説の文庫が一山。蓮見の趣味がそのまま詰まったような箱だった。
その底から、それは出てきた。
『汽水域』。周防灯という作家の、字の大きな新装版の文庫。同じ題、同じ版、同じ装丁。一冊、二冊——三冊。
「これなんです」千夏が身を乗り出した。「変ですよね。同じ本を三冊も。しかも祖父、目がほとんど見えなかったんですよ。白内障が進んで、二年前から新聞も読めなくて」
三上は手を止めた。
知っている本だった。知っているどころではない。この二年、蓮見は毎月第一日曜の開店直後にやって来て、この『汽水域』の新装版を一冊ずつ買っていった。毎回、棚に補充しておいた一冊を。
「お祖父さんはこの本を、うちで十一冊買っています」
千夏の目が丸くなった。
「十一冊……?」
「毎月一冊ずつ、二年近く。版元に毎月注文を入れるので、こちらも覚えています。同じ方が同じ本を買い続けるのは、めずらしいことですから」
「待ってください」千夏は鞄から手帳のようなものを出した。古い日記帳だった。ページの間から、ひとつかみの紙片が滑り出る。「レシート、やっぱりここのですよね。日記に挟んであったんです。十一枚。家族はだれも意味がわからなくて」
十一枚のレシート。手元には、三冊。
八冊が、消えている。
「読めない目で、なぜ本を買い続けたのか。買った本はどこへ行ったのか」
千夏は帳場の前の丸椅子に腰かけて、自分の指を見つめていた。
「祖母は『お父さんの道楽でしょう』って笑うんです。でも私、気になって。だって変じゃないですか。読めないのに買うなんて。それも、十一冊も」
「考えられる筋は、いくつかあります」三上は指を折った。「ひとつ。誰かに頼まれて買っていた。ふたつ。集めること自体が目的だった。みっつ。買った本を、どこかへ持っていった」
「持っていったって、どこへ。売るんですか? 買ったお店に?」
「それはありません。同じ版の文庫を古書店に持ち込んでも、買値の十分の一にもならない。蓮見さんは本の値打ちをよくご存じでした。損をするために二年も通う人ではない。集めるのが目的というのも、考えにくい。蒐集家なら初版や署名本を狙います。新装版を毎月一冊では、集める意味がない」
「じゃあ、誰かに頼まれて……」
「それなら、頼んだ当人が買えばいい。月に一度、決まった日に、自分の足で買いに来ることに意味があったはずです」
三上は三冊の『汽水域』を帳場に並べた。古書店主の習い性で、まず状態を確かめる。背に皺はない。小口もきれいなものだ。だが、ページを開いて、指が止まった。
栞が挟まっている。
一冊目には、押し花。紫色の小さな花弁が、薄紙にくるまれてページの間に眠っていた。
二冊目には、バスの回数券の半券。〈市民病院前〉行き。日付の印字は今年の三月、第二土曜だった。
三冊目には、紙の切れ端。クレヨンで描かれた、眼鏡の老人の似顔絵だった。線は迷いだらけで、しかし眼鏡の丸だけは何度もなぞって濃かった。
「これ……」千夏が似顔絵を覗き込む。「おじいちゃん、ですよね。誰が描いたんだろう。うちに小さい子はいないのに」
三上は答えず、押し花をもう一度見た。紫の花弁に、白の差し色。見覚えがあるはずだった。毎朝、自分が水をやっている花だ。
店先の鉢の、ビオラだった。
「蓮見さんは毎回、会計のときに同じことを言いました。『字の大きい版にしてくれ』と。最初は老眼のためだと思っていました。でも、考えてみればおかしい。ご本人はもう、大きな字でも読めなかったわけですから」
「じゃあ、なんのために」
「自分で読むためではなかった、ということです。それから、この半券」三上は回数券の印字を指で示した。「市民病院前。お祖父さま、通院されていましたか」
「いいえ。祖父は病院嫌いで、かかりつけは近所の医院だけ……」千夏ははっとして顔を上げた。「でも、毎月どこかへ出かけてました。土曜の朝に、紙袋を提げて。散歩だって言って」
「第一日曜にここで本を買う。翌週の土曜に、市民病院へ行く。紙袋を提げて」
三上は、二月の景色をひとつ思い出していた。市民病院の掲示板だ。腰の検査で一度だけ行ったとき、小児病棟の案内の隅に、手作りのポスターが貼ってあった。
——よみきかせの会・まいつき・だい二どようび。
クレヨンで縁取られた、子どもの手になるポスターだった。あのときは、ふうん、と思って通り過ぎただけだ。記憶の抽斗の奥で埃をかぶっていたその一枚が、いま、帳場の上の半券とぴたりと重なった。第二土曜。半券の印字と、同じ曜日。
「読み聞かせ、ですか? でも祖父は字が」
「読めません。だから蓮見さんは、読んでいない。考えられるのは——配っていた、ということです。入院している子どもらに、一冊ずつ。『汽水域』は児童書ではありませんが、周防灯の文章はやさしい。読み聞かせの会で誰かが読んでくれたのを、病室でもう一度なぞれるように。字の大きい版を選んだのは、お祖父さまの目のためではなく、ベッドの上の小さな読者のためだったんでしょう」
千夏は口を開きかけて、閉じた。膝の上の手が、日記帳の角を強く握っていた。
「押し花は、店先のビオラです。一度、蓮見さんに『一輪もらえないか』と言われて、好きにどうぞと答えたことがあります。たぶん、本に挟んで持っていった。栞のかわりに。この似顔絵と半券は——」
三上はそこで言葉を探した。指先が、似顔絵の端でかすかに震えた。声に出す前から、喉の奥が狭くなっているのがわかった。
「お返し、でしょう。本をもらった子どもらからの。蓮見さんはそれを、次に渡す本に挟んで、栞にして持ち歩いていた」
言いながら、三上はひとつの場面を思い出していた。今年の二月、最後に蓮見が店に来た日のことだ。会計を済ませた蓮見は、包んだ文庫を上着の内側に納めて、めずらしく帳場の前に立ち止まった。それから、棚のほうへ泳ぐ視線のままで言った。
「字の大きい本というのは、いいものだな。読めなくても、ちゃんと重い」
あのとき三上は、年寄りの冗談だと思って笑った。蓮見も笑った。それきりだった。重い、の意味を、二年越しにいま受け取っている。
しばらく、どちらも黙っていた。
通りをバスが過ぎる音がして、店の棚がかすかに鳴った。千夏は日記帳をめくり、終わりのほうのページで手を止めた。
「……三月から、字が乱れてるんです。体調を崩してたのは知ってました。四月と五月は、ほとんど寝たきりで」
「レシートは十一枚。手元に三冊。渡せたのは八冊です。最後の三冊は、買ってはあったけれど、届けに行けなかった」
「三月と、四月と、五月の分」
千夏は三冊目の『汽水域』を手に取り、似顔絵の切れ端を裏返した。そして、動かなくなった。
紙の裏に、クレヨンの文字があった。たどたどしい、大きな平仮名だった。
——らいげつも、まってるよ。
「待ってたんだ」千夏の声が揺れた。「この子、ずっと……」
三上は何も言わなかった。慰めの言葉は、この場面にはどれも軽すぎる気がした。かわりに、三冊をそろえて千夏のほうへ押し返した。
「この三冊は、買い取りから外します」
「え……」
「最初から、値段をつけるつもりはありませんでした。これは売り物じゃない。配達の途中の荷物です」
千夏は三冊を見下ろし、それから、泣き笑いのような顔をした。
「私が、届けます。土曜日に。読み聞かせは下手だと思うけど」
「読まなくてもいい。蓮見さんも読まなかった。渡すだけで、ちゃんと続きになります」
千夏は三冊を鞄に納め、残りの箱の査定額を受け取って、何度も頭を下げて帰っていった。引き戸の桟のところで一度振り返り、店先の鉢に目を留めた。
「あの、すみません。一輪だけ、もらってもいいですか」
「好きにどうぞ」
紫のビオラがひとつ、細い指に摘まれて、文庫本のページの間に挟まれた。十二枚目の栞だった。
午後の日が傾いて、帳場に長い影を引いた。三上は売れ残った時代小説の山を整えながら、来月の版元への注文書に、ひとこと書き足した。
『汽水域』新装版、今後も毎月一冊。
止める理由が、まだ見つからない。
エピソード一覧
まもなく第1話を公開予定です。