NOVLUM

星譜の声

第一章「沈黙の聖堂」

第2話「半語の名」

公開:2026.05.04 ・ 2,939文字

半語の名

扉の向こうから、シスター・エルマの声が、もう一度、低く呼んだ。

「ライラ。まだ起きているのですか」

ライラは、答えなかった。答えられなかった、と言ったほうが、正しい。胸の奥に、まだ、半分だけのあの言葉が、薄い余韻として、尾を引いていた。

「お入りなさい」と言うべきだ、と思った。 シスター・エルマに対する礼儀は、修道院に入った最初の冬から、彼女の身体の隅々まで染みている。 それでも、唇は動かなかった。

扉の向こうで、エルマが待っているのが分かる。 急かす気配は、ない。 むしろ、こちらが落ち着くのを、辛抱強く待っているような、そういう静けさだった。

ライラは、両手で握っていた革袋を、寝台の藁の下に押し込んだ。 音を立てないように、ゆっくりと。 指先がほんの少し震えていることには、自分でも気づかないふりをした。

「……はい」

短く、できるだけ、ふだんの寝起きに近い声で、彼女は答えた。

扉が開く。 蝋燭の灯を、エルマの大柄な影が遮った。 彼女は静かに部屋に入り、扉を後ろ手で閉めた。

五十をいくつか過ぎた女の肩は、白い修道服の中で、ライラの覚えているままだった。広く、丈夫で、子供のころ何度も背中で泣かせてもらった肩。

「明日の朝にすると、約束しましたね」

エルマは、卓のほうへ視線を向けないまま、そう言った。

「夜の客間は、寒いものですよ。誰かが灯を絶やしたら、もう戻ってこない人もいる」

低い声には、責める色はなかった。 心配だけが、そこにあった。

「ごめんなさい」

ライラは、視線を落とした。

「眠れなくて。どんな方だったのか、知りたくて」

嘘ではなかった。半分は、本当だった。 ただ——半分は、あの石片を、もう一度、自分の指に乗せて確かめたかったのだ。 そう思っていることを、彼女自身、認めるまでに少し時間がかかった。

エルマは、しばらく黙っていた。 ライラが彼女の足元を見ていると、その白い裾が、卓のほうへ、ほんの一歩だけ近づいた。

「リエルさんは」と、エルマは静かに言った。 「もう、長くは保たない、とご自身でわかっていらしたそうです。手紙の宛名は、わたくしも読めませんでした。古い言葉のようでした」

「古い言葉」

ライラの声が、わずかに上ずった。自分でも、嫌な高さだった。

——古い言葉。

そう、エルマが言うときには、決まった意味がある。 古代帝国の遺物に関わるもの。翠光修道会本部に「届け出る」べきもの。それを示す、エルマの符牒だった。

「明日、わたくしと一緒に、本部に書状を送りましょう」

エルマの目が、ようやく卓の上の、何もない場所を見た。

「あなたが、見つけたかたちで」

蝋燭の灯が、エルマの頬の輪郭を、ふっと淡く撫でた。

——あなたが、見つけたかたち。

その言い方は、いつものエルマだった。 優しく、配慮があり、子供を傷つけまいとする丁寧さに満ちていた。 それでも、ライラの胸の中で、その言葉は別の意味を連れて立ち上がった。「あなたが見つけたかたち」を、本部に送る。 本物のものは——どこかへ、消える。

「はい」

ライラは、頭を下げた。 頭を下げたままで、もう一度、息を、ゆっくり吸った。 藁の下に、革袋の重みがある。その中で、石片は、まだ、誰かの呼吸のように、静かに鎮まっているはずだった。

「では、お休みなさい、ライラ」

エルマは、寝台の縁に近づき、ライラの額に軽く手を置いた。 指は、いつものとおり、乾いて、少し冷たい。

「寒くないように、もう一枚、毛布を取ってきますね」

エルマが部屋を出ていったあと、ライラは、扉の前にしばらく座り込んでしまった。 息が、ようやく、深く吸える。

両手は、まだ、震えていた。 それは、見つかったから、ではなかった。 見つけられなかったから、震えていた。 自分が、エルマに嘘をつけたのだという事実を、彼女の身体は、いつも遅れて、知る。

朝の鐘の音は、いつもより重く聞こえた。 食堂の長卓に並んだ椀には、薄い湯気の麦粥。匙を取った指が、湯気を割るたびに、湯気の縁が一瞬だけ藍に視えた気がした。錯覚だ、と彼女は自分に言い聞かせる。錯覚だ、と何度も。 エルマは、朝の祈りの最中、一度もライラのほうを見なかった。それが何の意味もないただの偶然なのか、見ているのを見せまいとしているのか、ライラには判断がつかなかった。

祈りの言葉は、いつものとおり、滑らかに口から出ていった。 出ているのに、自分の声を、まるで他人のものを聞くように聞いていた。

朝の務めが始まる前に、四半刻だけ、彼女には時間があった。 ライラは、客間に戻った。 理由を、自分でも、もうごまかせなかった。

革袋を藁の下から引き出すあいだ、指は、彼女より先に、紐の結び目をほどいていた。

——手のほうが、先に動いている。

それを、自分の目で見ていた。 止めようとは、もう、思わなかった。

石片を、卓の上に置く。 朝の窓から差し込む光は、夜の蝋燭よりも、ずっと白かった。 表面の渦巻きの線——細く、滑らかに彫られた紋様が、昼の光の中では、誰かの指紋のように、はっきりと見えた。 中央には、判じきれない記号。

ライラは、息を、静かに吐いた。

そのとき、線が——視えた。 昨夜よりも、ずっと、細い線だった。 石片の表面から、湯気のように立ちのぼり、彼女の指先のあいだで、薄く震えている。藍。けれど、夜の藍ではなく、朝の窓の白がわずかに混ざった、紫がかった藍。

ライラは、息を、止めた。 線も、止まった。 彼女が、ふたたび、ゆっくり吐くと、線は、ためらいながら、また伸びた。 吸うと、震えた。

——わたしの息に、合わせている。

その確かさは、昨夜は、つかめなかったものだった。 昨夜は、ただ、視えた、というだけだった。 今、彼女は、視えるという感覚の、いちばん奥まったところに、自分の呼吸が関わっているということを、はっきりと知った。

その瞬間、彼女は、気がついた。 線が、いま、彼女の指先のあたりで、ふっとひとつだけ、太くなった。

それまでの細い線とは、明らかに違う、芯のある太さだった。 色も、紫がかった藍から、もっと深い、夜の藍に近づいていた。 ライラは、その変化に、息を呑んだ。 線は、その太い一本だけが、石片の中央の、ある一点から立ちのぼっている。

中央の記号—— それは、彼女が毎日、何度も目にしている形に、よく似ていた。

聖堂の地下に降りる、古い階段。 その入口の石壁の、一番上の段に、誰かが薄く彫った印。 ふだんは目に入らない。 十一の冬、雪掻きの当番で、その階段の前を通った。手の小さな彼女は、そこに屈んで、印を指でなぞっていた。指の腹に、何の感触もないことが、かえって不思議だった。 そのとき、後ろから、エルマが来た。

「これは、何ですか」

ライラが訊くと、エルマは、こう答えた。

「修道院ができる前から、ここにあった印ですよ。意味は、もう、誰も知らないのです」

そう言って、エルマは、話を終わらせた。 他の質問は、許されなかった。 階段から、彼女の手を、そっと離させた。

ライラは、石片を、両手できつく握った。 朝の鐘が、二度目を鳴らしはじめた。

口の中が、また乾いた。 半語の声が、もう一度、耳の奥で、何かを言いかけた。 意味は、まだ、分からなかった。 それでも、今度は、はっきりと、最初の音だけ、聞こえた。

その音は—— 彼女の名前の、最初の音と、同じだった。 ����������������������������������