本格ミステリー / 短編
水曜日の百円
作:NOVLUM編集部 ・ 開始 2026.07.19 ・ 最終更新 2026.07.19
毎週水曜だけ、駄菓子屋の銭箱は売上より百円多い。底に沈む一枚の古い百円玉。三十年ぶりに店番へ戻った詩織が辿り着いたのは、まだ終わっていない、ひとつの約束だった。
水曜日の百円
「詩織ちゃん、今日もまた合わないのよ」
ハルさんが銭箱を両手で持ち上げて、困ったように笑った。店の奥から西日が差し込んで、古い木箱のふちが飴色に光っている。三十年前と、何ひとつ変わらない夕方の光だった。
「合わないって、足りないんですか」
詩織は棚を拭く手を止めて、番台に近づいた。ハルさんは首を横に振る。皺だらけの指が、箱の底から一枚の百円玉をつまみ上げた。
「反対よ。百円、多いの」
売上より、百円だけ多い。ハルさんの手のひらの上で、その硬貨は妙にくすんで見えた。ふちが黒ずんで、新しい硬貨のような艶がない。ずいぶん古い一枚だと、詩織は思った。
「レジ、間違えたんじゃないですか」
「このお店にレジなんてないでしょう」
たしかに、と詩織は苦笑した。たぬき堂の会計は、昔ながらの木の銭箱ひとつきりだ。子どもたちが自分で小銭を入れて、釣りも自分で取る。ハルさんはただ、それを見て笑っている。そういう店だった。
詩織がこの町に戻ってきたのは、先月のことだ。会社を辞めて、しばらく実家で休むつもりだった。散歩の途中でたぬき堂の前を通りかかり、ハルさんが重そうに雨戸を動かしているのを見て、つい手を貸した。それ以来、週に何度か店を手伝っている。
子どものころ、詩織はこの店の常連だった。十円のラムネ菓子と、五円のうまい棒。番台の向こうで笑うハルさんは、あのころからもう白髪だった。
会社では、数字が一円でも合わなければ、朝まで帳簿とにらめっこした。合わない、という言葉は、詩織にとって長いあいだ、眠れない夜と同じ意味だった。だからこの町へ帰ってきた。合う合わないから、少し離れたかった。
それなのに、戻ってきた店で最初に出会ったのが、合わない百円だというのが、なんだかおかしかった。
「百円が多いの、いつから」
詩織が訊くと、ハルさんは指を折って数えた。
「ひと月くらい前かねえ。それがね、決まって水曜日なの」
「水曜日だけ」
「そう。ほかの日は、ちゃんと合うのよ。水曜だけ、百円多い」
詩織は銭箱を覗き込んだ。ばらばらの小銭に混じって、あのくすんだ百円玉が一枚、いちばん底に沈んでいる。まるで、ほかの硬貨に隠れるように。
誰かが釣りを取り忘れたのなら、こんなに何度も、こんなに規則正しく起こるはずがない。しかも古い一枚が、わざわざ箱の底に。偶然ではない、と詩織は思った。誰かが、そっと置いていっている。
その夜、詩織は布団のなかで、いくつもの可能性を並べてみた。
まず、ハルさんの数え間違い。けれど、それなら金額はばらつくはずだ。多い日もあれば、足りない日もある。ぴったり百円、しかも水曜だけというのは、間違いにしては几帳面すぎた。
次に、釣り銭の置き忘れ。だが、それなら硬貨は箱の口に無造作に残るだろう。わざわざ底へ沈める理由がない。あの一枚は、隠されていた。見つかりたくない誰かの手が、たしかにあった。
残るのは、ただひとつ。誰かが、代金でも釣りでもない百円を、そっと足している。しかも、決まって水曜に。それは、水曜にしか来られない誰かの仕業だ。
翌週の水曜日、詩織は朝から店にいた。
昼を過ぎると、子どもたちが順に顔を出す。ランドセルを背負ったまま駆け込んでくる女の子。自転車を店先に倒していく兄弟。みんな十円玉や五十円玉を握りしめて、真剣な顔で菓子を選ぶ。銭箱に小銭が落ちる、ちゃりん、という音が続いた。
そのなかに、ひとりだけ何も買わない子がいた。
痩せた男の子だった。小学二年生くらいだろうか。店の隅で、ラムネ菓子の箱をじっと見ている。手はズボンのポケットに突っ込んだまま、動かない。しばらくすると、何も言わずに帰っていく。
「あの子、いつも来るの」
詩織が小声で訊くと、ハルさんは目を細めた。
「颯太ちゃん。水曜だけね。習い事の帰りに寄るみたい」
水曜だけ。詩織の胸の奥で、小さな音が鳴った。
もっとも、水曜に来るのは颯太だけではなかった。夕方には、近所の野田さんという主婦が必ず顔を出す。手芸教室の帰りだといって、子どもへの土産にと駄菓子を袋いっぱい買っていく。詩織は一度、この人ではと疑った。
けれど、野田さんはいつも大きな札で払い、律儀に釣りを数えて受け取る。多く払って気づかない人ではないし、そもそも箱の底に硬貨を沈める理由がない。それに彼女は、大声でおしゃべりをしながら帰っていく。人目を避ける手つきとは、まるで逆だった。
残ったのは、何も買わずに帰る、あの痩せた男の子だけだった。
翌週も、その翌週も、颯太は水曜の同じ時刻に現れた。ラムネ菓子を見つめて、何も買わずに帰る。そして水曜の夕方、銭箱にはあの古い百円玉が一枚、増えている。
はじめ、詩織は最悪の想像をした。あの子が、何かを盗っているのではないか。けれど銭箱は減るどころか、増えている。盗みではない。それどころか、正反対のことが起きていた。
口の中が、かすかに渇いた。詩織はその渇きの意味を、まだ言葉にできずにいた。
颯太の運動靴は、爪先が白くすり切れていた。決して裕福な家の子ではないのだろう。それでも銭箱に落ちる百円だけは、いつも古びて、けれど大切に磨かれたように角が丸い。子どもの小遣いには、不釣り合いな一枚だった。誰かの手を、長いあいだ経てきた硬貨。おそらくは、同じ小箱にしまわれ続けた一枚。詩織は、その古さの意味を、幾晩も考え続けた。
答えの糸口は、ハルさんの何気ないひと言だった。
「颯太ちゃんね、先月おじいちゃんを亡くしたのよ。佐伯さん。うちの、古いお客さん」
雑巾を絞る手が止まった。
「古いって、どのくらい」
「そうねえ。あの人が颯太ちゃんくらいのころから、だからねえ」
ハルさんは番台の下から、古い帳面を引っ張り出した。表紙のとれかけた、大学ノートだった。売上をつけるためのものではない。ハルさんが昔から、忘れたくないことだけを書き留めている覚え書きだという。
そのなかほどに、鉛筆の薄い字があった。詩織が生まれるより、ずっと前の日付だ。
《ラムネ一つ、坊やが黙って持っていった。追いかけなかった。いつか払いにおいで》
「これ……」
「その坊やがね、佐伯さん。うちが貧しかったころ、お小遣いがなくてね。一度だけ、黙って持っていっちゃったの。わたし、見てたけど、追いかけなかった」
ハルさんは静かに笑った。
「立派な大人になって、何度も謝りに来たわ。お代を払わせてって。でもわたし、いらないって言い続けたの。あんな古い一つのラムネのために、この人がずっと下を向いて生きるのは、嫌だったから」
その言葉に、詩織は自分の子ども時代を思い出していた。
小学生のころ、詩織はこの店でラムネの瓶を割ったことがある。ビー玉の入った、あのガラスの瓶だ。冷たい水の桶から取り出した拍子に、指がすべった。瓶は土間で砕けて、ビー玉が転がった。詩織はお金を持っていなかった。怖くなって、何も言わずに逃げた。
そのことを、詩織は三十年、誰にも話していない。合わない帳簿の前で眠れなかった夜、ふいにあのビー玉の音が耳の奥で鳴ることがあった。人は案外、たった一つの割れた瓶を、ずっと抱えて生きていく。
「ハルさん、わたし昔――」
「知ってるわよ」ハルさんは笑った。「割れた瓶なんて、掃けばおしまい。あんたが逃げたのも、ちゃんと見てたの。追いかけなかったのも、佐伯さんのときと同じ」
詩織の喉が、つまった。三十年の帳尻が、いま静かに合った気がした。
詩織は、くすんだ百円玉のことを思い出していた。ふちの黒ずんだ、ずいぶん古い一枚。あれは、誰かが長いあいだ、小箱にしまっていた硬貨のように見えた。
脈が、速くなった。
「ハルさん。あの水曜の百円、佐伯さんの――」
「たぶんね」ハルさんは先回りするように頷いた。「亡くなる前に、颯太ちゃんに話したんじゃないかしら。おじいちゃんが子どものころ、この店にひとつ借りがあるって」
颯太のお小遣い日は、水曜なのだという。習い事の帰りに、たぬき堂へ寄る。ラムネ菓子を見つめて、けれど自分のためには買わない。祖父が遺した古い百円玉を一枚、そっと銭箱の底に沈めて、黙って帰っていく。
一つのラムネは、とうに十円の菓子ではなくなっていた。それは、亡き祖父が果たせなかった約束であり、幼い孫が引き継いだ、ひとつの誓いだった。
次の水曜日。詩織は番台の奥から、そっと店先を見ていた。
颯太が来た。いつものように、ラムネ菓子の前に立つ。それから素早くあたりを見回して、ポケットから小さな手を出した。指のあいだに、あのくすんだ百円玉が光る。かちん、と硬貨が箱の底に触れる音がした。
颯太が帰ろうとしたとき、ハルさんが番台から声をかけた。
「颯太ちゃん。ラムネ、一本持っておいき」
男の子の肩が、びくりと震えた。振り向いた顔は、真っ赤だった。
「……ぼく、お金」
「もう、もらったよ」ハルさんはラムネ菓子を一本、颯太の手に握らせた。「おじいちゃんの分と、あんたの分。ちゃんと、いただきました」
颯太の目が、みるみる潤んだ。それでも泣くのをこらえて、深く、深く頭を下げた。小さな背中が、夕暮れの通りへ駆けていく。
詩織は、番台の陰で息を止めていた。喉の奥が熱くて、うまく声が出せなかった。
「知ってたんですね。最初から」
「そりゃあ、ねえ」ハルさんは古い百円玉を、帳面のあいだにそっと挟んだ。「でも、取り上げちゃいけないの。あの子は今、いちばん大事なことを、自分の手でやってるんだから」
銭箱の底で、小銭がかすかに鳴った。
店先には、いつのまにか宵闇が下りていた。ラムネの瓶を冷やす水桶が、街灯の光を受けて青くひかっている。三十年前、詩織が割った瓶が沈んでいたのと、同じ色の水だった。あのとき逃げた道を、いま颯太が反対から歩いて、きちんと戻ってきている。詩織には、そう思えた。
借りは、もう返ってきている。それでも颯太は、来週もまた来るだろう。払い終わるためではなく、忘れないために。人はときどき、勘定の合わない百円のために、水曜日を歩いていく。
くすんだ一枚は、帳面のなかで静かに眠っていた。いつか颯太が大人になって、この店の前を通りかかる日まで。
エピソード一覧
まもなく第1話を公開予定です。