NOVLUM

記憶配達人

第一章「混入」

第3話「副ログ」

公開:2026.05.15 ・ 2,975文字

副ログ

白い軽は、もう、バックミラーに映っていなかった。消えたのではなく、消したのだ。玲はそれを、最初の交差点で受け入れていた。

首都高に乗ってから、玲はラジオを切った。朝のニュースが、いま耳に入ると、それ自体が紛れ込みになると思った。荷台にA三七一〇五は、もう無い。受領証だけが、運搬ケースの内側のポケットで、湿気を吸ってわずかに反っている。

羽田旧館の地下二階に車を入れたとき、玲はもう一度、自分の手袋の指先を見た。手袋の中の内蔵検出器は、依頼書外の混入を見つけたとき、運搬中の決まったタイミングで固有のログを残す設計になっている。配送室に戻り次第、それを所定のポートに戻して充電とアップロードを同時に行うのが、十七年来の流れだった。

ポートに戻せば、ログは社内サーバーへ素直に流れていく。技術一課が今夜のうちに見るだろう。見せる、というのが本当に正しいかは、ふだんなら問わない。今朝に限って、問うた。

橘がカウンターの裏から顔を出した。 「結城さん、第三の控え、こっち置いておきますね」 「ああ」 「カフェオレ、半分要ります? 駅前で買いすぎたんですけど」 「いらない」 橘は短く笑って、湯気の立つ紙コップを自分の机に戻した。玲は、その背中が遠ざかってから、ようやく動いた。

手袋を外す前に、玲は、私物のリーダーを左手の袖口の内側でゆっくり起こした。警視庁時代から机の奥で眠らせていた、もう新品では売っていない旧型だった。手袋のチップから二十四時間分のローカルログを、所定のポートではなく、自分の袖の中に落とす。三秒。視界の端で、橘の靴音は、まだ向こう側にいる。

落とし終えて、手袋を、今度こそ所定のポートに戻した。社内サーバーには「正規ログ」が流れていく。玲の袖の中には「副ログ」が、消える前のかたちで残った。 線を、一本、越えた。

越えた音は、しなかった。配送室の青いLEDの帯が、いつもの一拍だけ明るくなって、また落ち着くのを、玲は何でもない顔で見送った。十七年で、まっすぐ守ってきた一線が、今朝、自分の袖口の暗がりの中で、誰にも見られないまま、外側に倒れた。倒したのは、自分の指だった。

帰路、地下鉄に乗りながら、玲は窓に映る自分の顔を見ないようにしていた。ここ数年、鏡で会う自分の顔が、五年前と少しずつ違っていく速度に、慣れずにいた。慣れる前に、また、別のことを始めようとしている。

ホームに着くたび、車内広告のサブモニターが、青白い記憶配達のCMを音もなく流していた。「あなたの大切な一日を、確かに、ご家族へ」。十五年前は、地上波で同じコピーが、もっと素朴な絵で流れていた。十五年で、絵だけが洗練され、コピーは、ほとんど変わっていない。変わっていないことに、いま、玲は引っかかった。

品川の自室は、家具の数を、敢えて増やしていない。テーブルの中央に、引退した先輩配達人から十年前に譲り受けた、第二世代の検出器が一台。今は壊れているはずだった。譲り受けるとき、先輩は「壊れているのが、たまに、いい」と言った。意味を訊くと、先輩は笑って、「壊れた機械は、嘘をつかない」とだけ返した。十年経って、玲ははじめてその言葉を、自分の手のうちで温めた。

蓋を開け、袖の中に吸ったローカルログを、有線で読ませた。古い機械は、立ち上がりに、ためらいのような低い駆動音を二度鳴らした。

LEDが、赤に変わる。 半拍——半拍だけ、遅れた。 今朝、配送室のカウンターで指先が感じた、まさにあの遅れを、十年前の機械が、いま、もう一度なぞった。

玲は息を止めた。 窓の外で、京浜運河の方角を、貨物用ヘリの低い音が一度だけ通り過ぎた。音の輪郭が、いつもより遠い。耳の奥の血の音のほうが、近くで鳴っている。

第二世代機の表示窓に、もう一行、小さく走った。 α0481-r ——今朝、配送室の副ログの最後で一瞬だけ走った、あの内部コードだ。今度は消えなかった。十年前の機械は、消し方を、知らなかった。

玲は親指の腹を、表示窓のガラスに、軽く当ててみた。ガラスは温い。指は、震えていた。 震えるのは、十七年で、二度目だった。

ふと、世田谷の籐椅子で目を閉じた、あの女のことを思った。江口蒼子。彼女は、いま、自分のなかに何があるのかを、まだ知らない。波の音は、私の夢ですね、と言わせたまま、玲は階段を降りてきた。降りてくるのが正しかったかどうかは、いまも、わからない。わからないことを、わからないまま、棚に上げない癖が、警視庁の十年のあいだに、玲のなかでひとつだけ、確かに育っていた。

携帯を取り出した。電話帳の中の、二つ目の番号——警視庁の整備課にいた、五年前から年賀状だけで繋がっている男の名前を出した。 「もしもし。結城だ。一件、頼みたい」 向こうは何も訊かなかった。番号だけを伝える。世田谷の路地で、玲がさっき、頭の中で二度暗唱した、白い軽のナンバー。

「三十分くれ」と男は言って、切れた。 三十分が、二十二分で戻ってきた。 「結城、これ、廃車登録だぞ」 「廃車」 「二〇三九年。所有者、国家記憶物流公社、第四車両班」 玲は、しばらく、何も言えなかった。 「借りは、いずれ」 「いいよ。あんたが訊いてくる番号は、いつも、ろくでもない」

玲は携帯をテーブルの隅に伏せた。年賀状だけで繋がってきた相手に、五年ぶりに頼んだ一件目が、これだった。次に頼む二件目は、いつになるか、玲はもう、わからなくなっていた。窓ガラスの向こうで、京浜運河の水面が、夕方のひかりを集めはじめている。集めるひかりの色が、海の底のLEDによく似ている、と思ってから、玲はその連想を、ゆっくり、追い払った。

通話を切ってから、玲は窓辺に立った。 三つの事実が、卓上で、整列するのを待っていた。 一、検出器は、気づいた。 二、検出器のログは、消えた。 三、廃車登録された自社の車両が、現場にいた。

点は三つ。 線にするには、まだ、一本足りない。 足りない一本は、たぶん、いちばん、引きたくない方向にある。

玲はテーブルの椅子に腰を下ろし、しばらく、自分の親指を見ていた。震えは止まっていた。止まったあとの指のほうが、玲には、よけいに、頼りなく見えた。震えていたあいだ、指は十七年の手触りを覚えていた。止まった指は、覚え終えた指ではなく、覚え方を、忘れはじめた指のように、見えた。

電話帳を、もう一度開いた。 親指は、Aの行を素通りし、Nの行で、止まりかけた。 七尾灯。元後輩、現警視庁認知犯罪課。 玲は、その名前を、開かなかった。

報告は、まだ、しない。 理由は、もう、ある。 廃車登録された車のナンバーを、十七年磨いた指で覚えてしまった以上、その車を動かした人間に、自分の側から触れていく順番がある。順番を間違えると、五年前と同じことになる。

火曜の翌日、水曜の九時前。 玲はいつもの時刻に羽田旧館の地下二階に下り、いつものポートから手袋を外した。配送室の青いLEDは、ゆうべ誰かが机を片付けた跡がうっすら残っているほかは、何も変わっていない。 ように、見えた。

橘が、カウンターの向こうから、控えめに声をかけた。 「結城さん」 「ああ」 「A三七一〇五の件で、技術一課が、結城さんを、今朝のうちに、と」 玲は、手袋の指先を、もう一度、見た。 震えは、出なかった。 出なかった、ということが、十七年で、はじめて、こわかった。