第一章「混入」
第4話「消えた一行」
公開:2026.05.22 ・ 2,801文字
消えた一行
技術一課の面談室は、四階だった。
配送室とはエレベーターで三フロア上。ドアを開けた瞬間に顔へ当たる空調が、配送室とは種類が違う。配送室のそれは「記憶を保つ温度」で冷やされている。こちらは「人間が長時間いられる温度」に整えられている。差は二度か三度。同じ建物の中で、冷やす対象が異なる。天井に、配送室と同じ型の青いLEDが一本あった。出力が低いのか、床への光の落とし方が薄い。人を照らすためのLEDは、記憶を照らすためのLEDより、少しだけ、温度が高い。
担当者の名刺には「技術管理部第一課・主任技術員 篠塚和夫」とあった。四十代半ばとおぼしき、薄い金属縁の眼鏡の男だ。ネクタイはしていない。白い長袖シャツのボタンを最上段まで留めていて、それが制服でないことを、鎖骨の浮き方だけが示している。椅子の背もたれには、一度も預けたことがないような、まっすぐな座り方をしていた。テーブルの上はほぼ空だった。玲が座る前から、そういう準備をしていた人間の、整えた空白だった。
「ご足労をおかけしました、結城さん。A三七一〇五の件で、念のための確認をさせてください。技術課として把握しておきたい点がいくつかありまして」
「どうぞ」
「昨日のご配送後、当該カートリッジを検査ブースへ持ち込まれた記録があります。特急装填の使用許可を取得されていますね。三分ほどのご滞在です。通常、定例品の検査ブース使用は稀ですので、念のために」
玲は、わずかに間を置いた。
「重量の確認です。わずかに重いと感じたので」
「重量、ですか」
「四十・〇三グラム。規格内でした」
篠塚の眼鏡の奥で、何かが一度だけ動いた。瞬き、ではない。視線の焦点が奥に一ミリだけ引いたような動きだった。言葉を選んでいる人間だけが、言葉を選んでいる間だけ見せる、あの微細な変化。
「おっしゃる通り、規格内です。ベテランの方はこのくらいの誤差に反応されることがよくあります。ご心配には及びません」
そう言いながら、篠塚はテーブルの中央に、A4一枚の印刷物を置いた。
玲はそれを見た。
配送ログの正式出力だった。横に細長い書式で、認可ID、タイムスタンプ、検出器の動作記録が並んでいる。昨夜、副ログを三度読み直した。九行あった動作記録のうち、最終行に走っていた文字列は、α0481-rだった。
目の前の印刷物の動作記録は、七行で終わっていた。
残りの二行が、ない。
あるはずの行が、ない。
篠塚の視線が、玲が印刷物を見ているあいだ、ずっと玲の目元に向いていた。記録を見ているのか、記録を見ている顔を見ているのかを、測っていた。そういう種類の注意を向けてくる人間が、玲にはすぐに分かる。警視庁の十年で、ほぼ毎日、そういう人間の反対側に立ってきた。
玲は、その紙を、三秒見た。三秒で、十七年分の意味を整理した。印刷物をテーブルへ戻すとき、指先がほんの一瞬、紙の角に触れた。紙は、温かかった。印刷されてから、まだ時間が経っていない。
「問題なし、ということですね」
「はい。ご心配には及びません」
「ほかにありますか」
「もう一点だけ。配送後のカートリッジ返却時刻が、いつもより四分ほど遅かったようです。帰路の混雑でしたか」
「ええ」
「確認は以上です。お時間をいただき、ありがとうございました」
篠塚は、それ以上、何も訊かなかった。玲は名刺を胸ポケットへ収め、立ち上がった。篠塚も立ち、廊下まで送り出した。握手はなかった。軽く頭を下げ合い、それで終わった。二人とも、本当のことは一言も口にしなかった。それは玲には分かっていたし、篠塚にも分かっていたはずだった。
廊下で三歩ほど離れたとき、背後で会議室のドアが閉まった。普通より、半拍だけ、急いでいた。
エレベーターを待つあいだ、玲は廊下の窓から駐機場を見ていた。
サーバーの正式ログから消えた、α0481-rの二行。
副ログには残っている。正式サーバーの記録を書き換えるには管理者権限が必要だ。技術一課の主任は、その中の一人だ。だが権限を持つ人間が自ら手を動かすとは限らない。権限を借りた者が消すこともある。線の端は、まだ、霧の中にある。
何も知らない人間と同じ顔をすることが、今朝の玲にとって最善だったかどうかは、エレベーターが来るまでの時間では判断できなかった。
扉が開いた瞬間、口の中が少し乾いていることに気づいた。気づくまでに、数秒かかっていた。
一階まで下りたとき、エントランスホールのソファに、人影があった。
黒いコートを膝に畳み、グレーのニットを着た女が、受付カウンターに背を向けて座っている。まっすぐな、疲れていない座り方だった。待ち慣れた人間の座り方ではなく、呼ばれて来た人間の、行き場のない正しさがある。ハンドバッグを肩ではなく膝の横に下ろしていた。長くなると知っていたか、そうするよう指示されていたか、一見では判断できない。
玲は三歩進んで、止まった。
江口蒼子だった。
昨日、世田谷の籐椅子で父の三日を受け取った女が、今朝、羽田旧館のNMA本部ロビーにいる。
彼女は顔を上げた。目が合った。一秒、それから二秒。彼女の表情に、驚きはなかった。驚きがないことに、玲のほうが、驚いた。
「結城さん」
「ええ」
「NMAから連絡がありまして。昨日の受信について確認したいことがある、と。念のための呼び出しだと、先方は言っていました」
玲はその言葉を、そのまま、頭の中に置いた。
「受信に、問題があったんでしょうか。父の記憶に何か」
「技術課の判断です。詳しくは担当者から聞いてください」
蒼子は、ゆっくりと頷いた。それから、膝の上のコートを、人差し指の腹で一度だけなぞった。確かめるような、それでいて何も確かめられていないような仕草だった。
「波の音のことを、あなたに言わなければよかったんでしょうか」
玲は、答えなかった。
「昨晩、ずっと考えていました。余計なことを言ったのかと。あれを言ったことで、何か、面倒なことになりましたか」
面倒、という言葉の選び方が、玲には引っかかった。面倒が何を指しているのか、彼女が知ったうえでそれを言ったのか、知らずに言ったのかが、その一言では判断できない。
「ご心配なく」と玲は言った。
「そうですか」
蒼子は、もう一度、コートに視線を落とした。今度は、なぞらなかった。
玲はガラスの自動扉へ向かった。後ろは振り返らなかった。
扉の外で、羽田旧館の駐機場の風が、一度、強く顔に当たった。昨日と同じ強さで、同じ西の方角から来ている。同じ場所の、同じ風だ。
車に乗ってから、すぐにはエンジンをかけなかった。シートに背を預け、ハンドルの上で両手を組んだ。指先は震えていなかった。震えていないことが、十七年で、はじめて、頼もしくなかった。
それでも玲の耳は、ずっと、後ろにいた。
——NMAが蒼子を呼んだ。
ということは、NMAは、波の音のことを、知っている。