NOVLUM

記憶配達人

第二章「五年前の同僚」

第13話「満ちるまで」

公開:2026.07.24 ・ 2,885文字

満ちるまで

名前を呼ばれる、というのは、逃げ道をひとつ塞がれることだった。玲は、そのことを、逆光の橋の下で、思い出した。

七尾灯は、欄干から身を引くと、迷わず護岸の梯子に足をかけた。玲がついさっき、誰にも気づかれずに降りた、あの鉄の梯子だった。段の間隔を確かめる素振りもない。若い刑事は、暗い干潟へ、まっすぐ降りてくる。捜す側の人間の、降り方だった。

玲は、この五年、誰にも背中を追われたことがなかった。配達人の背中は、追う値打ちがない。荷物を運ぶだけの人間だ。追われる側の緊張を、玲の体は、久しぶりに思い出していた。

玲は、時計を握った手を、上着の内側へ戻した。金属の冷たさが、手のひらに残っている。潮で硬く縮んだ革のベルトが、指の節に、貝殻のように当たっていた。この物だけは、頭の中から出てきたのではない。転写されるのは波形で、海水も、匂いも、物も運ばれない。諏訪の言葉が、そう告げていた。ならばこの時計は、送り主が、確かにこの世へ置いていったものだった。

七尾が、泥に足を取られながら、玲の三歩手前で止まった。息が、上がっている。夜明けの逆光で、表情は、まだ見えなかった。


「……三度、かけました」

七尾の声は、走ったあとの、浅い息の底にあった。「出ないから、来ました」

玲は、答えなかった。答える言葉を選ぶより先に、口の中が乾いていることに気づいた。脈が、首のポートのすぐ下で、速く打っている。今度は、玲自身の脈だった。混ざった男の秒針は、四時十二分に、もう止まっている。走っているのは、玲のほうだった。

「こんな刻に、こんな場所へ」玲は、ようやく言った。「刑事が一人で来る場所じゃない」

「結城さんが一人で来た場所です」

言い返しの速さに、五年の時間が、少し縮んだ。七尾灯は、玲がまだ課にいたころ、いちばん後から入ってきた。教えることの多い後輩だった。その多さを、玲は途中で放り出して、課を出た。辞めた朝、七尾には何も言わなかった。言えば、引き止められる。引き止められれば、迷う。迷えば、また誰かを近くへ呼んでしまう。玲は、黙って机を空にした。その黙りを、七尾は五年、忘れずにいたらしかった。

「留守番、聞かなかったんですね」七尾は言った。責める響きは、無かった。それが、かえって刺さった。「聞いてたら、来ないでほしいって言う。そう思ったから、聞く前に来ました」

玲は、この若い刑事が、どうやってここへ辿り着いたのかを、考えた。三度の着信。取らなかった相手を、七尾は足で追ってきた。追える理由が、あったということだ。


「何を、追ってる」玲は訊いた。

七尾は、少しのあいだ黙った。それから、上着の内から、薄い端末を出した。画面の光が、初めて、その顔を下から照らした。眠っていない顔だった。玲の眼の下の隈を、そのまま若くしたような、影があった。

「先月から、妙な配達が、三件」七尾は言った。「宛名のない荷物が、正規の便を通さずに、東京の下を動いてます。認知犯罪課で追ってるのは、私一人です。誰も、本気にしない」

宛名のない荷物。玲の胸の底で、ゆうべの波の音が、一度だけ鳴った。

「三件とも、受け取った人間が、覚えのない夢を見はじめて」七尾は続けた。「そのうちの一人は、自分の見た夢を、届け出ました。他人の一日を、頭の中で、毎晩くり返してるって。誰も、事件として立てません。夢は、証拠になりませんから」

玲は、蒼子の名を、口に出さなかった。届かない荷物は、鳴る。誰かが受け取るまで、鳴りやまない。七尾が追っていたのは、鳴っている荷物の、音のほうだった。

「三件の経由地を、逆にたどると」七尾は、画面を玲のほうへ向けなかった。向けずに、続けた。「みんな、同じ水路の、同じ橋の下で、消えてました。潮が引く刻にしか、開かない場所で」

玲は、握った手の中の時計を意識した。潮の下の段の裏に、古いカートリッジが、あと二本、沈んでいた。届かなかった荷物が、あの一段に溜まっていた。七尾は、その荷物の、送り主の側から、同じ場所へ辿り着いていた。玲は受取人として、七尾は追跡者として、別々の糸をたどって、同じ一段の前に立っている。

「結城さん」七尾は、端末を下ろした。「あなたは、受取人の側から、ここに立ってる。違いますか」


風が、干潟を低く渡った。潮の匂いが、濃くなる。玲は、東の空を見た。橙は、もう半分、灰色に食われかけている。水は、まだ引いていた。だが、いちばん深い谷は、過ぎている。ここから先は、満ちるだけだった。

満ちれば、段は沈む。段の裏の二本も、玲の握るこの時計も、次の満ち潮までに動かさなければ、また潮の下へ戻る。迷っている時間は、潮のほうが決めていた。玲は、迷いを、そこでやめた。

上着の内から、時計を出した。七尾の、端末の光の下に、それを載せる。

「裏を、見ろ」

七尾は、受け取らなかった。玲の手のひらの上で、風防の斜めの傷を、まず見た。それから、裏蓋の、潮で半分溶けた文字を、覗き込んだ。

読むのに、少しかかった。読み終えて、七尾の息が、止まった。

下の名の、三文字。慎之介、と彫ってあった。

「相沢さん」七尾は、名字のほうを、声にした。溶けて消えた、そちらの三文字を。「相沢慎之介さん」

玲は、うなずかなかった。うなずけば、それが、本当になる。だが七尾の声は、玲のうなずきを、もう必要としていなかった。この若い刑事も、その名を、知っていた。


「知ってるのか」玲は訊いた。

「課の、資料で」七尾は言った。「私が入る、少し前の人です。会ったことは、ありません。写真と、記録だけ」

記録だけ、という言葉に、玲は、五年前の夜の輪郭を、また撫でた。芯は、まだ欠けている。だが、名が入ったことで、輪郭の縁が、はっきりした。

相沢は、時計をよく見る男だった。腕を返して文字盤をのぞく仕草が、妙に速かった。ただの癖だと、当時の玲は思っていた。あの海の記憶の中で、同じ手が、同じ速さで文字盤をのぞいていた。癖ではなかったのだ、と玲は、五年遅れて気づいた。相沢は、あのころから、何かの残り時間を、数えていた。数えていることを、玲は、隣にいて、一度も訊かなかった。

七尾が、玲の手のひらの時計に、もう一度、光を落とした。「私、ずっと知りたかったんです」小さな声だった。「結城さんが、何も言わずに辞めた理由。相沢さんの名前が、その真ん中にあること――いま、わかりました。会ったこともない人の名前で、あなたが、こんな刻に、こんな場所へ来ることの意味も」

「その記録には」玲は、乾いた口で、先を促した。「相沢の、何が書いてある」

七尾は、端末を、もう一度灯した。指が、少し、迷った。

「殉職、です」

言葉が、干潟の泥の上に、静かに落ちた。

「相沢慎之介、警視庁認知犯罪課。殉職の日付は――」七尾は、画面の数字を、読み違えないように、ゆっくり言った。「五年前の、七月です」

玲の手のなかで、時計は、まだ、冬の海の刻を指していた。頬の左だけを削る、冷たい風の海だ。コートの襟を立て、缶コーヒーの冷めた甘さを、玲は他人の舌で味わった。あれは、冬だった。

七月の海に、あんな風は、吹かない。