第二章「五年前の同僚」
第14話「前の冬」
公開:2026.07.31 ・ 2,895文字
前の冬
水は、退くのをやめていた。
玲が段に目を落とすと、爪先の先で光っていた泥が、うっすらと濡れ直していた。指一本ぶん、水が戻っている。方向が、変わったのだ。運河は、いちばん深い谷を過ぎて、もう満ちる側へ、舵を切っていた。
「あと、どれくらいですか」七尾が訊いた。潮のことだと、玲にはわかった。
「二十分は、ない」玲は言った。「梯子の根まで水が来たら、上がれなくなる」
嘘では、なかった。正しくも、なかった。この運河の満ちは、最初の二十分がいちばん遅い。焦らせないための嘘を、玲は、若い刑事のために選んだ。焦った人間から、泥に足を取られる。干潟は、そういう場所だ。
七尾を先に上げてしまえば、それでよかった。だが、この若い刑事が、玲を残して一人で梯子を上るとは、思えなかった。ならば、二人ぶんの時間を、玲が数えるしかない。玲は、段の側面の窪みに、もう一度、手を差し入れた。指が、四角い匣の縁をなぞる。ゆうべ蓋を外した、あの匣だった。底に、黒が二本、まだ沈んでいる。届かなかった荷物が、この一段の裏に、何年も溜まっていた。
「灯りを、こっちへ」玲は言った。
七尾が、端末の光を、玲の手元へ回した。玲は、匣の底の一本目を、指の腹で挟んだ。潮で膨れた樹脂が、金具に貼りついている。爪を立てて、剥がすように、引いた。
一本目が、抜けた。
古いほうだった。直径三センチの黒い筒は、表面が白く曇り、ID面が、細かい傷で潰されている。読み取れないように、誰かが削った跡だ。ゆうべ玲が見た一本と、同じ削り方だった。同じ手が、何年もかけて、同じやり方で、宛名を消してきた。
玲は、それを上着の内へ移した。時計と、ゆうべの一本の隣に、冷たい黒が、また一つ増えた。
二本目に指をかけたとき、足首に、水が触れた。
冷たさが、革靴の縫い目から、じわりと染みた。潮は、玲の言った二十分を、待つ気がないらしかった。口の中が、また乾いた。脈が、首のポートの下で、速く打っている。今度は、玲自身の脈だ。混ざった男の秒針は、四時十二分に止まったきり、もう動かない。走っているのは、玲のほうだった。
爪の先が、二本目の底をとらえた。金具の錆が、指の腹を、細かく削る。痛みは、あとで数えることにした。ゆっくり、まっすぐ、玲は、それを引いた。
二本目も、抜けた。
玲は、二本を、手のひらに並べた。古い一本は、樹脂が白く濁り、もう一本は、それより少し新しい。同じ段の裏に、時期をずらして、置かれたものだった。宛名を削られた荷物が、何年も、この一段を通っていた。相沢の一本だけでは、なかったのだ。この段は、宛名を書けない者たちの、たった一つの郵便受けだった。
その意味は、あとで考える。いまは、水のほうが、速い。
「結城さん」七尾が、玲の横で言った。水面を見たまま、動かない。「さっきの、時計のことです」
玲は、手を止めた。
「冬だって、言いましたよね」七尾は続けた。「あなたが見た海は、冬だと。でも記録の、殉職の日付は、七月です。合いません」
「合わない」玲は認めた。
七尾は、端末を、また灯した。指が、少し迷ってから、画面を送った。「気になって、さっき、もう一度たどりました。相沢さんの、最後の申請です」
「申請」
「自己記憶の、抽出です」七尾は言った。「亡くなる前の冬に、一度だけ。本人が、自分の記憶を、正規の便で、抽出してます。ライセンスの、正しい手続きで」
玲の指の中で、二本目のカートリッジが、鈍く光った。
自己抽出は、珍しくない。危険な任務の前に、遺言がわりに、自分の一日を残す人間は、いる。誰も、疑わない。合法で、静かで、届け先さえ書かなければ、ただの記録として、公社の棚に埋もれていく。相沢は、その手続きを、冬に踏んでいた。死ぬ、半年も前に。
つまり、と玲は思った。この荷物は、事故で混ざったのではない。
相沢は、前の冬に、自分の記憶を一度、正規の便で世に出した。そこから先、宛名を削り、正規の便を降ろし、潮の段の裏を通して、五年をかけて、読める一人のもとへ、たどり着かせた。七月に死んだ男が、その前の冬に、もう、自分の死を、荷造りしていた。
半年あれば、人は、多くを準備できる。宛名を削る手順を、覚えることも。潮の段に、匣をボルトで留めることも。読める一人が、いつか必ず、この刻に、この橋を渡ると信じることも。相沢は、その全部を、誰にも言わずに、冬の海のそばで、静かに進めていた。玲には、荷物を運ぶ仕事だけを、残して。
玲は、防波堤で時計を確かめる、あの速い手つきを、また思い出した。残りの時間を数える見方だった。相沢は、あのころから、数えていた。数えていることを、玲は隣にいて、一度も訊かなかった。訊かなかった半年を、相沢は、たった一人で、荷造りに使っていたことになる。
「知って、たんですね」七尾の声が、低くなった。「自分が、どうなるか」
「わからない」玲は言った。本当だった。芯は、まだ欠けている。だが、欠けた縁に、また一つ、形が合った。前の冬、という縁だ。合ってしまえば、もう、知らなかったことには、できない。
玲は、上着の上から、増えた黒の重さを、手のひらで、一度、確かめた。三本のカートリッジと、一つの時計。相沢が半年かけて荷造りし、五年かけて届けたものが、いま、玲の胸の内に、全部あった。
風が、向きを変えた。
さっきまで陸から海へ抜けていた風が、いま、水路の奥から、玲たちの背へ、回りこんでくる。潮が変われば、風も変わる。玲は、その風の底に、混じるはずのない音を、聞いた。
低い、水を分ける音だった。
玲は、顔を上げた。水路の奥、まだ暗い水面の上を、灯りを消した小さな艇が、ひとつ、こちらへ近づいてくる。櫓でも、櫂でもない。電動の、静かな船だ。音を、殺している。近づくために音を殺す、その殺し方を、玲は知っていた。仕事で、何度も、聞いた側にいた。
配達人は、荷を守るためなら、音を消す。だが、いま近づいてくる静けさは、守る側のものでは、なかった。奪う側の静けさだった。首の後ろの毛が、風より先に、立っている。
玲は、七尾を、背で庇う位置へ、半歩、動いた。この荷の重さも、この艇の意味も、若い刑事には、まだ渡したくなかった。渡せば、五年前と、同じことになる。薄い札で人を呼べば、呼んだ相手のほうから、欠けていく。玲が、いちばん体で覚えている理屈だった。
段が現れる刻を知っているのは、送り主だけではない。玲は、五年分の勘で、そのことを、とうに知っていた。荷物を消しに来る連中も、同じ潮の表を、読める。四時十二分の干潮は、荷を隠すのにも、待ち伏せるのにも、ちょうどいい刻だった。相沢が読んだ潮の表を、追う側も、同じ目で、読んでいる。
「七尾」玲は、若い刑事の腕を、掴んだ。「梯子だ。先に上がれ」
七尾は、動かなかった。艇のほうを、まっすぐ見ている。「結城さんは」
「荷を、上げてから行く」
だが、玲の握った手の向こうで、水は、もう梯子の根を、静かに舐めはじめていた。潮は、待たない。艇も、待たない。玲に残された段は、いま、足の下で、少しずつ、水に沈もうとしていた。