NOVLUM

記憶配達人

第二章「五年前の同僚」

第15話「同業」

公開:2026.08.07 ・ 2,836文字

同業

梯子の三段目で、玲の靴が、水を踏んだ。

さっき降りたときには、乾いていた段だった。潮は、玲が数えて見せた二十分を、待ってはいなかった。上着の内で、三本のカートリッジと、一つの時計が、鈍く重い。玲は、その重さごと、体を一段、上へ運んだ。

「先に上がれと、言ったはずだ」玲は、下の七尾に言った。

「聞こえてました」七尾は、梯子の根に立ったまま、動かない。爪先が、もう水に浸かっている。「聞こえた上で、上がりません」

玲は、舌打ちの代わりに、息を吐いた。この若い刑事は、五年前の玲が、いちばん扱いに困った種類の人間だった。留守番を聞かずに来る。上がれと言われて、上がらない。玲の言葉の、裏まで読んで、それでも残る。

水路の奥で、あの静かな音が、また一つ、水を分けた。


灯りを消した舟は、もう、橋脚の手前まで来ていた。

電動の、低い唸りだけが、水の面を這ってくる。船体は、夜明け前の残りの闇に、うまく溶けている。舳先の高さも、乗っている人数も、玲には、まだ読めなかった。読めないように、造ってある舟だった。

玲は、七尾の肩を、梯子のほうへ、押した。「話は、上でする」

七尾は、肩を掴まれたまま、水路の奥を、見ていた。「あれ、船ですよね」若い声が、低くなった。「灯り、点けてない」

「点けない舟に、用があるのは」玲は言った。「点けられない荷を、運ぶ連中だけだ」

そのとき、舟の上で、細い光が、一度だけ灯った。

懐中電灯では、なかった。もっと小さい、指先ほどの緑の光だ。それが、乗っている人間の、首のあたりで、点いて、消えた。玲は、その光を、知っていた。仕事のたびに、自分の首でも、同じ緑を点す。

体内検出器の、確認灯だった。

配達人が、荷を積む前に、自分の体に違法な記憶が混じっていないかを、首のポートから読む。読み取りが済むと、確認灯が、緑を一度、返す。免許を持つ者だけが、体の内に埋めている器械だった。

舟の上の人間は、いま、それを点した。

玲の口の中が、乾いた。脈が、首のポートの下で、速くなる。今度こそ、玲自身の脈だった。荷を消しに来たのが、ただのならず者なら、まだ、よかった。緑の確認灯を持つ相手は、ならず者では、ない。玲と、同じ免許を、体に埋めた人間だった。

同業だ、と玲は思った。

舟は、満ちはじめた潮の押しに、舳先を、きっちり立てていた。水は、いま、水路の奥へ向かって流れている。その流れに逆らって、舟を一点に止めるには、絶えず、細かく、力を利かせ続けなければならない。素人には、できない止め方だった。荷を、狙った一点へ、正確に着ける——それは、配達人の、いちばん基本の技だった。奪いに来た相手は、その基本を、玲と同じ年月、体に叩き込まれている。


「結城玲」

舟の上から、声が来た。低く、抑揚のない声だった。玲の耳が、その平坦さを、覚えのある平坦さだと感じた。感情を殺す訓練を受けた声は、どこか、玲自身の声に、似ている。

「特級、二三の、四一」声は、続けた。玲の、公社の免許番号だった。桁を、一つも間違えなかった。「あなたの荷ではない物を、四本、持っている」

「三本だ」玲は、言い返した。時計は、荷ではない。

「三本と、一つ」声は、律儀に、訂正した。「どちらでも、いい。あの段の裏は、うちの終端だ。あなたが、開けていい匣ではなかった」

うちの、と男は言った。玲は、その一語を、頭の隅に留めた。この舟は、一人のものでは、ない。段の裏を造り込み、宛名を削り、潮の下を通して荷を運ぶ——それを、うちの、と呼べる集まりが、どこかにある。届かなかった荷物が、あの一段に溜まっていたのは、事故では、なかった。誰かが、あそこを、正規の便の外にある、もう一つの終端として、使い続けていた。

免許を持つ、手で。

玲は、十七年、荷を運んできた。その十七年で、正規の便の裏に、これほど静かな物流が、別に流れていたことを、今朝まで、一度も、掴めなかった。掴めないように、造られていたのだ。段の裏の窪みも、削られた宛名も、音を殺した舟も、掴ませないための、細工だった。玲が運んできた正規の荷の、すぐ隣を、宛名のない荷が、同じ潮に乗って、流れていた。玲は、その気配にすら、気づかなかった。気づいていたのは、届け先を、たった一人に絞りきった、あの男だけだった。


「上がれ、七尾」玲は、もう一度、言った。今度は、若い刑事の腕を、掴んでいた。

七尾は、舟のほうを、まだ見ている。「あの人、警察じゃ、ないですよね」

「警察なら、名乗る」玲は言った。「あれは、名乗らない側だ」

七尾の足が、ようやく、梯子の一段目にかかった。玲は、その背を、下から支えて、押し上げた。水は、もう、玲の踝を、完全に浸していた。潮は、二人ぶんの時間を、もう、勘定に入れていない。

舟は、それ以上、寄せてこなかった。

橋脚の手前で、唸りを、止めている。追ってくる気配は、なかった。玲は、そのことのほうが、追われるより、嫌だった。追わない、ということは、追う必要が、ない、ということだ。相手は、玲がどこへ上がろうと、いつでも見つけられる自信を、持っている。

「一つ、教えておく」舟の上の声が、言った。親切のつもりは、無い平坦さだった。「あなたは、その荷を、もう体で読んだ。首の検出器は、正直だ。今日から、どの検問を通っても、あなたの緑は、赤を返す」

玲は、動かなかった。

「あなた自身が、いま、宛名の消えた荷だ」声は、そう言って、灯を、落とした。


玲は、梯子の最後の段を、上りきった。

欄干の内側から、七尾が、手を伸ばしていた。玲は、その手を借りずに、自分の腕で、体を、歩道橋の上へ引き上げた。上着の内で、四つの重さが、また、鈍く鳴った。三本と、一つ。もう、玲の荷だった。

振り返ると、舟は、もう、水路の奥へ、灯りのないまま、退きはじめていた。来たときと、同じ、音を殺した退き方だった。奪いに来て、奪わずに、帰っていく。荷は、置いていく。荷を持った玲のほうを、次に回収すればいい——そう決めた者だけが、できる退き方だった。

「結城さん」七尾の声が、隣で、震えていた。走ったせいでは、なかった。「あの人、最後に、何て」

玲は、答えなかった。答えれば、この若い刑事も、同じ荷を、背負うことになる。五年前と、同じだ。近くへ呼んだ相手のほうから、欠けていく。

代わりに、玲は、自分の首のポートに、指を当てた。仕事のたびに、緑を確かめてきた、その場所だ。指の腹の下で、脈が、まだ、速い。玲は、確認灯を、点さなかった。点せば、赤が、返る。

配達人は、荷を運ぶ人間だ。荷そのものには、ならない。十七年、玲は、そちら側に、いた。運ぶ手であって、運ばれる中身では、なかった。それが、今朝、境目の、向こう側へ、移った。

点さなくても、玲には、もう、わかっていた。

東の空が、白から橙に、変わりきった。夜が明けても、玲の首の緑は、二度と、戻らない。届け終えたはずの荷が、いま、届け先を、玲自身に書き換えていた。