NOVLUM

もう一度、八月

第一章「四月の再会」

第6話「六月の名前」

公開:2026.06.03 ・ 3,404文字

六月の名前

六月のはじめの朝、月島の窓の青は、五月のそれより、ひと匙だけ重みを増していた。

槙はベランダに出て、隅田川の方向を見やった。雲は厚いというほどではないけれど、東の空に薄い灰がかかり、川面はその色を半分だけ拾っていた。指先に、湿気の最初の予兆があった。あと数日で、街は梅雨に入る。槙は息をひとつ吐き、部屋に戻って、机に座った。

机のうえに、未送信の下書きが、ひとつだけ残っていた。

宛先「葉山涼太」、件名「ご連絡が遅くなりました」、本文は空欄のまま。連休明けに、葉山から送られてきた件名だけのメールに、まだ返事を書いていなかった。「『先生』、やめてもらえた一日目のお礼まで」。あの文字列を、槙は十日のあいだに、何度開いて、何度閉じたか、もう数えていなかった。

返事をすると決めて、決められないまま十日が経っていた。十日めの朝、机の前で、槙はノートパソコンを開き直し、本文の欄に指を置いた。

「葉山さん、」

最初の四文字を打って、指を止めた。これだけのことを、十日ぶんも先送りにしていた。書いてしまえば、「葉山さん」と呼ぶ自分はもう、書く前の自分ではなくなる。それだけの四文字に、十日ぶんの重みを乗せていたのだと、打ってから初めて気づいた。

「葉山さん、

先日の打ち合わせのあと、お返事が遅くなり、申し訳ありません。先生、と呼ばないこと、まずは今日からはじめます。短編の続きを、よろしければまた聞かせてください。

高橋」

書いてから、句点を整え、送信を押した。送信の音は鳴らなかったけれど、画面の右上で、送信済みのチェックが小さく灯った。

槙は珈琲をひと口含んだ。ちょうど冷めかけている温度だった。あまり熱いと、いまの唇はうまく受け取れなかった気がする。

返信は、二十分後に来た。

「高橋さま

ありがとうございます。一日目を、こちらこそ。続きは、また喫茶の窓辺で。

葉山」

短かった。短くて、十日かけて開けた扉の音が、こちら側にもむこう側にも、ほとんど鳴らなかったのがありがたかった。葉山は、扉を開けたことを、扉を開けたままにしておく類の人だった。閉めもしないが、押し広げもしない。

槙は画面を閉じ、机のうえのスマートフォンを取った。仕事のメール一覧をスクロールすると、夕べの遅い時刻に、もう一通、未読が並んでいた。

差出人は、周だった。

「高橋さま

お疲れさまです。来週の合同打ち合わせに先立ち、編集体制の事前確認として、群青書林にて三十分ほどお時間を頂戴できないでしょうか。執筆候補の方々への日程連絡の前に、こちらでも確認しておきたい点が数点ございます。来週の水曜、午後三時はいかがでしょう。

工藤」

「高橋さま」。 最初の宛名のひと文字だけ、槙の目に少しだけ引っかかった。これまでの周のメールは、いずれも「高橋様」だった。「様」がひらがなになっている。たったそれだけの差分が、画面のなかに、まっすぐに置かれていた。

事務の枠を、ほんの一ミリ柔らかくする宛名だった。それを偶然と取るには、槙は十年前の周をよく知りすぎていた。彼は、宛名の漢字を書き間違える人ではない。

「工藤様

ご連絡ありがとうございます。水曜午後三時、お伺いいたします。お場所の住所をご教示ください。

高橋」

送信したあと、槙は窓のほうを見た。隅田川の上の灰色は、いつのまにか青に戻りかけていた。雲が東へ抜けたのだ。


その日から五日後、槙は飯田橋の坂を上っていた。

群青書林の入っているビルは、坂の上のさらに一本奥にあった。ガラスと石の中庭をはさんで、一階の案内板に二つの名称が並んでいた。「群青書林 文芸第二編集部」六階。「群青書林 装幀室」三階。

自社のなかに装幀室を抱えていることを、槙は今日まで知らなかった。抱えているからといって、全案件をそこが請けているとは限らない。「妻には、別ラインの仕事を進めてもらっています」と周は四月に言った。別ラインは、では、この中なのか、外なのか。槙は短く息を吸い、案内板から目を逸らした。考えるべき距離ではない場所を、自分はいま考えようとしていた。

六階に上がり、来客受付で名を告げた。来客のシールを胸につけ、奥の会議室に通された。

「お忙しいところ、すみません」

会議室の中で、周はすでに立っていた。立ったまま、軽く会釈した。声の温度は、四月の喫茶店のそれと、ほぼ同じだった。

「いえ。お時間をいただいた側ですので」

槙は座り、ノートを開いた。三十分のうちに確認すべき項目を、周は事前にこちらへ共有していた。執筆候補への日程の出し方、自註原稿の入稿フォーマット、編集スケジュールの締切の刻み方。仕事の話だった。仕事の話を、仕事の声で、二人で進めた。

「写真は、外部の方にお願いする予定です」と周が言った。

「装幀は」

槙が言いかけて、句切った。事前確認の項目には、装幀の発注先までは含まれていなかった。けれど話の流れで、自然に出かけた。

「装幀は」と周が、槙の言葉を引き取った。「外部の方に、お願いする予定です」

「分かりました」

それ以上は訊かなかった。周も、それ以上は答えなかった。机のうえで、周のシャープペンが、罫線をひとつ、まっすぐに引いた。十年前と、同じ角度のまっすぐさだった。槙の指先に、ほんの一瞬だけ、熱が走った。引かれた線の角度に反応したのか、息を整え損ねたからなのか、自分でも判らなかった。手のひらでカップを包むと、表面はすでに少しずつ冷えていた。

三十分は、三十分で終わった。槙は会釈をし、来客のシールを胸からはがした。

会議室を出て、エレベーターの前で待った。階数表示が下から六まで上がってきて、扉が開いた。中には、ひとり、女性が立っていた。胸元に、群青書林のロゴの入った社員証。手元に、薄い紙ファイル。ファイルの背に「装幀」の二文字が、横書きで小さく印字されていた。

ほんの一秒のあいだ、目があった。

女性は、無表情だった。穏やかでも、警戒でもない、表情を持たない表情に見えた。槙はエレベーターに乗り、彼女は降りた。彼女が降りた階は、六階。文芸第二編集部のフロアにあたる。装幀室は三階のはずだ。打ち合わせのために編集部へ来ていたのかもしれない、と槙は思った。思ってから、思おうとしている自分に気づき、すぐにそれ以上は思わないことにした。

扉が閉まる前、槙は鏡張りの内壁に、自分の顔の半分を見た。化粧の薄さも、髪の毛先の跳ね方も、いつもどおりだった。いつもどおりなのに、自分の頬の温度だけが、いつもより少しだけ高かった。鏡の中の自分は、それに気づいていない顔をしていた。


ビルの外に出ると、六月の昼下がりの風が、坂の上から下に吹き降ろしていた。湿度の質が、五月のそれより、もう一段濃かった。槙は坂を下りながら、コートではなく薄い上着を持って来てよかった、と思った。

スマートフォンが、坂の途中で短く震えた。

「高橋さま、葉山さん、と打ってもらえた一日のお礼まで。葉山」

葉山からの、短い後追いだった。槙は画面のうえで、一日のお礼まで、というその「まで」を、二度読み返した。彼は、自分のなかで、まだ一日目を数えていた。

歩きながら、もう一度、スマートフォンが震えた。

差出人は、周だった。本文は、一行だった。

「本日はお時間いただきありがとうございました。高橋槙さま」

宛名の四文字に、槙は坂の途中で、足を半歩だけ止めた。

「高橋槙さま」。

「様」ではなく、「さま」。 「高橋さま」ではなく、「高橋槙さま」。

四月から五月にかけて、何通もやり取りしてきた宛名の、たった三文字の差分だった。十年前、二十二歳の自分を呼んでいた声が、画面のなかに、初めて、姿のかたちで戻ってきていた。

槙は、坂の途中で、振り返らなかった。振り返らないことを、いま自分の身体で押さえていた。坂の上のビルの中に、別ラインの仕事をしているかもしれない人がいる。事前確認の三十分を、仕事の声で受け取ってくれた人がいる。「葉山さん」と打たれた一日目を、数えてくれている人もいる。

ひとりの自分のなかで、三人ぶんの呼び名が、同時に動いていた。

槙はスマートフォンを伏せ、坂を下り続けた。六月の風は、頬よりも、首筋の付け根に、最初の湿度を置いていった。風は、もう、夏の手前だった。

駅の改札を抜けるとき、槙はもう一度だけ振り返ろうかと思って、しなかった。

伏せたままの画面の下で、二つの宛名は、揺れずに並んだまま在った。