NOVLUM

もう一度、八月

第一章「四月の再会」

第7話「つかさ亭の午後」

公開:2026.06.10 ・ 3,374文字

つかさ亭の午後

梅雨入りの朝、神保町の路地は、すずらん通りの石畳まで湿りを帯びていた。

槙は古書店の軒先に立ち、傘の先で軽く水を切った。雨はもう降り止んでいたけれど、空はまだ低く、ビルの三階あたりに薄い灰が掛かっていた。十時前の通りは人の数がまばらで、シャッターを開けたばかりの店の床から、湿った段ボールの匂いが漂ってきた。

つかさ亭は、表通りから一本奥に入った、二階建ての古いビルの一階にあった。木の扉のうえに、手書きの「つかさ亭」の文字が、青い琺瑯ふうの板に白で抜かれていた。扉を引くと、店の中だけ空気の質が違った。湿度のひだが整えられ、二段だけ下がる三和土の段差を踏む音が、店主の耳に届く設計になっていた。

「いらっしゃい」

カウンターの奥から、白いシャツの店主が顔を上げた。槙は会釈し、奥のテーブル席を指さした。窓の側、二人がけの席。十年前にもこの席に座った記憶があった。記憶があったことを思い出したのは、椅子を引いてからだった。

時計の長針が、約束の十時半を、まだ少しだけ手前で待っていた。槙はノートを開き、確認すべき項目を、ペン先で軽く頭出ししていった。短編集の仮題、執筆者ごとの担当頁数、初校の戻りスケジュール。書きながら、頭の中で別の音もしていた。昨日の周からの一行のメール、宛名の三文字の差分、坂の途中で振り返らなかった自分のかかとの音。仕事のリストの上に、それらが薄く重なって見えた。重なって見えるのを、ペンを動かす速度で、いったん整列させた。

扉が、低く軋んだ。

「お待たせしました」

浅井詠子は、薄い灰色のコートを片腕にかけて入ってきた。背丈は槙より少し低く、髪は耳の下までの白髪まじり。眼鏡はかけておらず、目尻にだけ、笑い癖の細い線があった。挨拶のしぐさは抑制的で、けれど店主には顔を見せる程度に会釈をした。客と店主の旧い間合いだった。

「ご足労ありがとうございます」

槙が立ち上がりかけると、浅井は片手で軽く制した。

「いえ。雨が止んでよかったわ」

向かいに座り、メニューを見ずに「珈琲、深いほうで」と注文した。槙も同じものを頼んだ。

「『三十二歳の声』、ですね」と浅井が言った。

仮題を、最初の一言で口にしてくれた。槙は、書いたタイトルが声になって戻ってくる瞬間に、いつも少しだけ気が引き締まる。仮題は、書き手が決めたものではなく、編集側のメモから始まることが多い。声に出して読まれることで、ようやく仮題は半歩、本題に近づく。

「はい。仮題のままです」

「いい仮題だと思いますよ」と浅井は言って、ひと呼吸ぶん間を置いた。「いい、というのは、いま私が書いているものに、ちょうど触れてくれる仮題、という意味で」

「触れて、ですか」

「ええ。触れてくる。けれど、まだ、当ててはこない」

浅井は珈琲を一口含んだ。深煎りの匂いが、テーブルの上に薄く漂った。槙はノートのペンを置き、両手をテーブルのうえで軽く重ねた。仕事の手の置き方ではなかった。話を聞くための、手の置き方になっていた。

「ちょうど二十二歳のころに書いたものを、読み返していたところでした、と先日お返事に書きました」

「拝読しました」

「あの返事を書いたあとで、自分でも、なぜそれを書いたのか、しばらく分からなくて」

槙はうなずいた。うなずきながら、相手の言葉のリズムに、自分の呼吸を寄せた。

「考えてみると、こういうことだったんです」と浅井は言った。「いま六十二歳の私が、三十二歳の自分の声で、何かを書こうとしている。六十二歳の口では言えないことが、三十二歳の口でならまだ言える、と思っているらしいんです。私の手が」

「言える、というのは」

「やり直さない、と決めたあとの言葉、です」

槙は息を、ひと呼吸ぶん預けた。預けたあとで、ゆっくり吐いた。窓の外で、雨が一度、軒先のひさしを叩いた。叩く音は短かった。

「やり直さない、ですか」

「ええ。三十二歳のときの私は、やり直す側の言葉で書いていたんです。これからやり直すんだ、という勢いの、声で。けれどいま読み返すと、ほんとうの三十二歳の私は、やり直さない側に半歩、踏み出しかけていたみたいで」

浅井はそこで言葉を切り、珈琲をもう一口含んだ。

「だから、仮題を、少しだけずらしていいですか」

「ずらす、というのは」

「『三十二歳の声』を、『三十二歳のあとの声』にしていただきたいんです。私の担当ぶんだけ」

槙は、ペンを取った。取ってから、書く前に、ひと呼吸ぶん止めた。仮題の三文字を増やすだけの、一行の修正のはずだった。修正のはずなのに、ノートの上で、書く手が動こうとしないのが分かった。三十二歳のあと。あと、という二文字に、自分の今の年齢のかたちが、まっすぐに置かれていた。

「分かりました」と槙は言った。「『三十二歳のあとの声』、で進めさせてください。短編集全体の仮題は『三十二歳の声』のまま据え置き、浅井先生の一篇の章扉にだけ、その副題を立てる、ということで」

「ありがとうございます」と浅井は短く言った。「短編集全体の仮題は、編集の方の判断にお任せします」

それから三十分ほど、二人は実務の話に戻った。原稿の文字数の目安、初校の戻り時期、章扉のレイアウトの自由度。浅井は、原稿用紙換算で四十枚から五十枚、と言った。多くも少なくもない、ちょうどの分量だった。槙は数字を書き留めながら、相手の言葉の余白を、別の頁に薄く写した。仮題の隣に、「あとの声」と、自分のためのメモとして、小さく書いた。書いた瞬間、ペン先のインクが、紙の上で少しだけ滲んだ。湿気の濃い日には、いつもよりインクが乗る。乗りすぎたインクは、文字を一回り大きく見せた。

会計のあと、店の外で別れ際に、浅井がふと、こちらの目を見た。

「高橋さん」

「はい」

「読者として、ひと言だけ訊いてもいいですか」

槙は、ノートを抱え直した。雨上がりの湿った空気が、ノートの紙の縁を、わずかに膨らませていた。

「あなたは、ご自分のことを書こうとなさっていますか」

問いの輪郭は、柔らかかった。柔らかいまま、まっすぐにこちらへ届いていた。槙は、息を吸い直した。仕事の声ではない声を、一度だけ通した。

「書こうとは、していないと思います」

「では、書かないでいることを、選んでいらっしゃる」

「——たぶん、そうです」

「分かりました」と浅井は言って、軽く頭を下げた。「いい編集者は、書かないでいることを選べる人だと、私は思っています」

それだけ言って、浅井は地下鉄の入口のほうへ歩いていった。背中のシルエットは、ひとり分の歩幅で、まっすぐだった。槙はその後ろ姿を、見送るというより、自分の側で動かないでいるために、しばらく見ていた。雨はまた、降り出すかどうかの境目を、空のどこかで迷っていた。


月島の部屋に戻ったのは、夕方の早い時刻だった。

鍵を回し、灯りをつけ、コートを掛けた。机のうえのノートパソコンには触れず、まず、机の二段目の引き出しを開けた。封のしていない事務用封筒を取り出し、中の白紙を広げた。

「拝啓、二十二歳の私」

その一行のうしろに、槙は、万年筆で一行だけ書き足した。

「私は今日、書かないでいることを、選びました。」

書き終えて、句点を整えた。書き足した一行は、最初の挨拶よりも、ほんの少しだけ字が小さくなっていた。万年筆の重みが、午前中よりも素直に、紙のうえに乗っていた。槙はその紙を、もう一度四つに折り、封筒に戻し、引き出しのいちばん底に戻した。糊は、今日も、つけなかった。

机のうえのスマートフォンが、短く震えた。

差出人は、周だった。本文は、いつもの実務的な丁寧さで整っていた。

「高橋さま

お疲れさまです。来週金曜の合同打ち合わせの場所と時間を、改めてご連絡します。群青書林の応接にて、午後二時より。当日は弊社の編集長も同席いたします。先日の事前確認、ありがとうございました。

工藤」

槙は最後の三行を、二度読み返した。「先日の事前確認、ありがとうございました」。それだけだった。坂の途中で、振り返らなかったことについては、画面のどこにも書かれていなかった。書かれていないことが、書かれていることよりも、わずかに、長く残った。

返信は、今日のうちには書かないと決めた。決めてから、画面を伏せた。

窓の外で、夕方の雨が、もう一度、軒先を細く叩き始めていた。