NOVLUM

もう一度、八月

第二章「梅雨の打ち合わせ」

第15話「湯呑みを、二つ」

公開:2026.08.05 ・ 3,041文字

湯呑みを、二つ

戻り梅雨の湿りは、木曜の朝、月島の部屋の窓に、指の腹一枚ぶんだけ、まだ張りついていた。

槙は机の前に座り、伏せて置いていたスマートフォンを、指の腹で、ひと度だけ、表に返した。前夜、既読の印だけを灯していたメールの一行が、朝の光のなかで、字の輪郭を、半段だけ立てていた。

「初校日、静秋社様、直接、伺ってもよろしいでしょうか」

差出人の欄には、印字ではなく、装幀室の署名の癖と同じ位置で、「工藤凛子」と入っていた。件名の位置に、日付は入っていなかった。日付を入れずに、日程の是非を、まっすぐこちら側に預ける置き方だった。

槙は湯呑みを、指の付け根で受けた。木曜の朝の湯気は、月曜の朝と少しだけ違う手触りをしていた。月末に向かう空気の乾き始めが、湯気の縁を、細く切っていた。

湯呑みを机のうえに置き、抽斗から、白い便箋を、また一枚、引き出した。便箋差しの布地に、二週間前と、一昨日の、二通ぶんの窪みが、細く残っていた。今日の一通は、その窪みのすぐ隣に、まっすぐ置いた。

宛名を、書いた。

「群青書林 装幀室 気付 工藤凛子さま」

一昨日、封をした便箋の宛名と、同じ位置に、同じ角度で、書いた。書いた縦の払いの角度は、月曜の朝、栗原が湯呑みを置いた指の、あの、まっすぐな角度と、同じままにした。

本文の一行目を、書いた。

「初校日程の件、静秋社にて、装幀室のご担当と、担当編集の高橋との、二者で、直接お会いする場を、正式に設けさせていただきます」

「二者で」の三文字を、一段だけ、ゆっくり書いた。宛先の順序のなかから、周を経由しない位置を、初めて、こちら側から明示するための、三文字だった。書いてから、青いペンで、細い線は引かなかった。線を引かない位置に、事務の温度だけを、まっすぐ置いた。

続けて、日時の候補を、実務の三行で並べた。八月最終週の水曜、装幀初校と本文初校の同日運用に、静秋社側の会議室のうち、いちばん奥の、小さいほうの部屋を充てる旨を、書き添えた。

三段落目に、事務の枠から半歩だけ出た文を、また一つ書いた。

「湯呑みは、こちらで、二つ、揃えてお待ちしております」

書いてから、その一行のうえに、視線を、ふた呼吸ぶん置いた。装幀室への正式な事務の返信のなかに、湯呑みの数は、書かなくてもいい一行だった。書かなくてもいい一行を、書いたことについて、槙は、しばらく、答えを置かなかった。置かないままで、署名を、「静秋社 業務委託/担当編集 高橋槙」の一行で、閉じた。

便箋を、封筒に入れた。封をする前に、いっとき、封の縁を、指の腹で撫でた。撫でた指の温度は、二週間前の便箋の封の縁と、まだ、同じ位置に、細く残っていた。


昼過ぎ、槙は都営大江戸線で神保町へ出て、静秋社の三階の小さな会議室の扉を、両手で押した。栗原は既に、書類ではなく、電話台の脇の予約表を、机のうえに、静かに広げていた。

「奥の、八号室で、よろしいですか」と栗原は言った。

「はい。あちらの、窓の位置が、装幀の色を、いちばん、まっすぐ見せます」

「装幀室のご担当は、お一人、でよろしいですね」

「はい。工藤凛子さん、お一人、です」

栗原は予約表に、鉛筆で細く、日付と時刻と、部屋の番号を書き込んだ。書き込んだあとで、書いた鉛筆の芯の先を、いっとき止めた。止めた芯の先を、槙のほうへは向けず、窓の側へ、まっすぐ、寝かせて置いた。

「事務のご一報は、群青書林の副編集長のほうへは、こちらから、また、静秋社側から、通しておきます」

「お願いいたします。宛先は、装幀室が主、営業経由が従、で、お願いできますか」

「承知しました」

栗原は、いっとき、目線を予約表のうえで止めた。「装幀室が主」の五文字のうえで、事務の温度の内側に、頷きの角度だけを、まっすぐ収めた。

「湯呑み、二つで、よろしいですか」

「はい。二つで、お願いいたします」

栗原は、それ以上、何も訊かなかった。訊かないままで、給湯室のほうへ、視線をひと度だけ振った。振った視線の先に、来週の水曜、二つの湯呑みが、伏せて置かれる棚の位置が、まっすぐ、あった。

会議室を出るとき、廊下の窓の外の空が、朝より半段だけ、青の割合を、増やしていた。戻り梅雨の湿りが、少しずつ、指の腹の一枚ぶんだけ、剥がれ始めていた。八月の入口の乾いた光が、廊下の白い壁のうえに、細い斜めの線を、ひと本だけ、置いていた。


夕方、月島の部屋に戻ってから、槙は、便箋差しから、便箋を三枚だけ、抜き出した。抜き出したぶんの窪みが、布地のうえに、細く残った。残った窪みのすぐ隣に、封筒に入れて封をした、凛子への一通を、静かに寝かせて置いた。

寝かせた封筒のうえに、朝からの湿りが、いっとき、指の腹一枚ぶんだけ、まだ、乗っていた。乗った湿りは、封筒の中の便箋の、「湯呑みは、こちらで、二つ、揃えてお待ちしております」、その一行の位置の、ちょうど上にあった。

机のうえの、スマートフォンを、伏せない位置で、そのまま置いた。伏せないでおくのは、二週間前より、半段だけ、意識の内側に、置き方の角度を変えていた。

その夜、画面は、鳴らなかった。鳴らないままで、月島の部屋の窓の外で、街灯の光が、時季より、さらに半段、早く灯った。灯った白い光のうえに、槙は、湯呑みを、二つ、揃えて置く、来週の水曜の会議室の景色を、いっとき、視野の下に、置いた。

置いた景色のなかで、湯呑みの、こちらの一つと、あちらの一つとの、机のうえの距離は、意識で、まだ、半段だけ、狭めていなかった。狭めないままで、その景色を、机のうえの、月末の空気の乾き始めの、その位置に、預けた。


火曜の夕方、初校日の前日、槙は静秋社の裏口を上がり、明日の会議室の下見のために、八号室の扉を、いっとき押した。窓の外の空は、月曜より、さらに乾いていた。戻り梅雨は、火曜の午後で、ようやく、季節の縁から、指の腹一枚ぶんだけ、離れていた。

会議室の机のうえに、栗原は既に、湯呑みを二つ、揃えて伏せて置いていた。伏せた湯呑みの底の茶の輪は、まだ、どちらにも、乗っていなかった。二つの湯呑みは、机の対角ではなく、角を挟んだ二辺のうえに、それぞれ、置かれていた。栗原の指が置いた位置は、来客と担当編集を、真向かいで対峙させないための、静秋社の会議室の、いつもの角の作法だった。

槙は伏せられた湯呑みの片方に、指の腹を、ひと度だけ、触れた。触れた指の温度が、湯呑みの底に、うすい輪を、残さないままで、消えた。消えたあとに、机のうえには、あかるい真昼の光と、栗原の指が置いた角の距離だけが、静かに残った。

扉を閉めようとしたとき、鞄のなかで、スマートフォンが、短く震えた。

差出人は、いつもの装幀室でも、栗原でも、葉山でも、なかった。

「工藤周」

件名は、事務の温度で、こう入っていた。

「明日、装幀室のご訪問、承知いたしました。私は、書面で、経緯だけ、拝受いたします。ご盛会を、お祈り申し上げます」

「ご盛会を」——その四文字の位置に、槙は、視線を、ふた呼吸ぶん、置いた。四文字は、事務の温度の枠から、半段だけ、外に出ていた。出ていた半段のなかに、金曜の川沿いで、彼が上着の胸のあたりで指を静かに揃えたときの、あの抑制の癖が、まだ、細く、折り込まれていた。

槙は、返信を、開かなかった。開かないままで、既読の印だけを、画面の右上に、細く、灯した。

八号室の湯呑みは、二つ、伏せられたままで、明日の朝の、湯気の位置を、待っていた。