NOVLUM

もう一度、八月

第二章「梅雨の打ち合わせ」

第16話「装幀の朝」

公開:2026.08.12 ・ 3,493文字

装幀の朝

立秋を過ぎた水曜の朝、神保町の路地の敷石は、指の腹一枚ぶんだけ、乾いていた。

槙は八時半に静秋社の裏口を上がり、三階の廊下の突き当たりの、いつもの八号室の扉を、両手で押した。窓の外の空は、青の割合を、季節よりも半段だけ、深めていた。夏の入口の乾いた光が、机の白いクロスのうえに、細い斜めの線を一本、まっすぐ置いていた。

栗原はすでに来ていた。給湯室から運んできた湯呑みを、二つ、机の対角ではなく、角を挟んだ二辺のうえに、伏せて置いていた。湯呑みの底の茶の輪は、まだ、どちらにも、乗っていなかった。

「おはようございます」

「おはようございます。九時半で、よろしいですか」

「はい。装幀室のご担当、九時半、で」

栗原は予約表を、机の脇の卓のうえに、まっすぐ寝かせた。

「お茶は、こちらで、お淹れいたします」

「お願いいたします」

「湯呑みは、あちらの、少し薄手の、白い縁のほうを、お客様、で、よろしいですか」

「はい。お願いいたします」

栗原は頷いて、給湯室のほうへ、静かに戻っていった。廊下の扉を閉める音が、いつもの半段だけ、遠く聞こえた。

槙は机のうえの、伏せられた湯呑みの、こちらの一つに、指の腹を、ひと度だけ、触れた。触れた指の温度は、湯呑みの底に、うすい輪を、残さないままで、消えた。消えたあとに、机のうえには、朝の光と、栗原の指が置いた角の距離だけが、残った。


九時二十七分、階段のほうから、革のヒールではなく、フラットな靴底の、乾いた音が、まっすぐ上がってきた。二歩目の音の重心は、装幀のサンプルの厚みぶん、いっとき、右に傾いていた。

扉が、外から、静かに、二度、叩かれた。槙は席を立ち、扉を開けた。

入ってきたのは、白いシャツに、生成りのリネンのスラックスをあわせた女性だった。両手に、装幀のサンプルボードを、二枚、まっすぐ抱えていた。指の付け根に、朱の点が、一つだけ、乾いた位置で、残っていた。

「装幀室の、工藤凛子です。初めまして」

「静秋社 業務委託の、高橋槙です。お待ちしておりました」

凛子は会釈をした。会釈の角度は、装幀の職人が色見本を置くときの、まっすぐな角度と、同じだった。

「奥のほうに、お通しください」

「はい」

凛子は、机のうえのサンプルボードを、角を挟んだ二辺のうち、窓のほうの一辺に、静かに寝かせた。寝かせた位置は、二つの湯呑みの、ちょうど中間の線のうえに、まっすぐ、揃っていた。

栗原が湯呑みを二つ、茶を注いで運んできた。凛子の前には、白い縁の、少し薄手のほうを、机の角の位置から、指の腹二枚ぶんだけ手前に、静かに置いた。

「どうぞ」

「頂戴いたします」

凛子は両手で湯呑みを包み、湯気の縁に、ひと度だけ、視線を落とした。落としたあとで、視線を、装幀のサンプルのほうへ、まっすぐ戻した。

「初校の、装幀のご提案、二案を、お持ちしました」

「拝見します」

凛子は一枚目のサンプルボードを、槙のほうへ、半歩だけ、押し出した。表紙の色は、白のうえに、朱の細い一本の線が、天のほうから、地のほうへ、まっすぐ、落ちていた。

「一案目は、白地に、朱の一線、で」

「はい」

「二案目は、生成りの地のうえに、朱の一点、で」

凛子は二枚目のサンプルボードを、一枚目の隣に、まっすぐ揃えて置いた。生成りの地の中央に、朱の一点が、指の腹一枚ぶんの大きさで、まっすぐ、乗っていた。

槙は、湯呑みを、指の付け根で受けた。二枚のサンプルボードのうえに、視線を、順に、置いた。

「作家さんの、原稿の中の、朱、は、線のほうですか、点のほうですか」

凛子は、いっとき、顔を上げた。上げた目のなかに、装幀の職人の眼と、それではないもう半段の眼が、細く、重なった。

「ご原稿は、拝読いたしました。三稿までの、二篇分」

「はい」

「二篇目の、洗い物の場面の、シンクのうえの、灯りの位置は、点のほう、だと思いました」

「点のほう」

「はい。線は、時間の厚み、を、示せます。点は、時間の重み、を、示せます。あの二篇目の一行は、時間の重みの側、だと」

槙は、湯呑みの縁を、指の腹で、ゆっくり一周した。回した指の温度が、湯呑みの陰に、細く戻った。首筋の左側の付け根の温度が、湯気の縁で、ひと段だけ、輪郭を強めた。強めた輪郭を、湯呑みの陰に、隠さなかった。

「二案目、で、お願いいたします」

凛子は、頷いた。頷きの角度は、応接の会釈より、半段、深かった。

「ありがとうございます」


装幀のサンプルボードを、凛子は、机の白いクロスのうえで、少しだけ、位置をずらした。ずらした角度は、指の腹半枚ぶんだった。ずらしたあとの位置に、朱の一点は、窓の光の斜めの線の、ちょうど下に、まっすぐ、収まった。

「本文の初校の、束見本のほうも、後日、お持ちいたします」

「はい。ご都合の良い日で」

「来週の月曜、で、いかがでしょうか」

「拝承いたします」

凛子は、鞄のなかから、白い便箋を、一枚、机のうえに、まっすぐ寝かせた。便箋の縁は、装幀室で切り揃えられた、細い切り口のままだった。

「日程の書面、と、装幀二案の、選定の書面を、こちらに」

「頂戴いたします」

便箋のうえに、凛子の署名は、まっすぐな細い筆致で、「工藤凛子」の五文字で、閉じられていた。「工藤」の二文字の「工」の縦の払いは、二週間前、送付状の担当欄で見た五文字と、指の位置が、動いていなかった。動いていない位置から、今日は、槙のほうへ、まっすぐ、届いていた。

「工藤さん」

「はい」

「初校の日程、装幀室と、静秋社と、直接お通ししていただいたこと、感謝いたします」

凛子は、湯呑みの縁の位置で、ひと呼吸、置いた。

「宛先の位置を、装幀室にいただけたのは、こちらの装幀の作業にとっても、指の落ち着きが、半段、違いました」

「そうですか」

「はい。線を引く位置と、点を落とす位置は、宛先の位置で、決まる、と、思っております」

「宛先の位置、で」

「はい」

凛子は、湯呑みを、机のうえに、静かに戻した。


十時半、装幀のサンプルボードは、凛子の鞄の中の、専用の紙挟みに、まっすぐ収まった。凛子は、席を立った。立ち上がる指の運びは、来たときと同じ、装幀の職人の、まっすぐな角度だった。

「本日は、ありがとうございました」

「こちらこそ」

凛子は、扉のほうへ、二歩、進んだ。二歩目の音の重心は、来たときの、右に傾いた位置ではなく、まっすぐ、中央にあった。

扉の前で、凛子は、いっとき、立ち止まった。振り返らないままで、こう置いた。

「あの、」

「はい」

「湯呑みを、二つ、揃えてくださって、ありがとうございました」

槙は、湯呑みを、指の付け根で、受けたままで、返事の位置を、しばらく、空けた。

「湯呑みの数は、便箋に、書かせていただいた通りに」

「はい。お便箋の、三段落目の、あの一行、を」

凛子は、そこで、初めて、振り返った。振り返った目のなかに、装幀の職人の眼と、それではないもう半段の眼が、まっすぐ、重なった。重なった眼のうえに、朱の点は、まだ、置かなかった。

「あの一行、書かなくてもいい一行だった、と、私も、思っております」

「はい」

「書いてくださった一行を、装幀の側では、朱の一点、として、受け取らせていただきました」

凛子は、会釈をした。会釈の角度は、来たときと同じ、まっすぐな角度だった。角度のなかに、朱の点は、まだ、乗っていなかった。乗っていない位置から、扉が、静かに、閉まった。


八号室の机のうえに、湯呑みは、二つ、残された。栗原の指が置いた角の距離は、朝と同じ位置に、まっすぐ、あった。凛子の側の湯呑みの底の、細い茶の輪は、湯気の縁が引いたあとも、しばらく、乾かないままで、残った。

槙は、自分の側の湯呑みを、指の付け根で受けた。首筋の左側の付け根の温度は、湯呑みの陰から、まだ、消えなかった。消えないままで、机のうえの、二枚のサンプルボードのうちの、二案目の、生成りの地のうえの、朱の一点の位置に、視線を、いっとき、置いた。

朱の一点は、窓の光の斜めの線の下から、動いていなかった。動いていない位置に、槙は、書かなくてもいい一行を書いた、月島の机の夕方の、便箋の縁の指の温度を、そっと、重ねた。

鞄のなかで、スマートフォンが、短く震えた。差出人は、栗原でも、葉山でも、凛子でも、なかった。

「工藤周」

件名だけが、目に入った。

「装幀の初校、無事に、済んだ、と伺いました。私からも、ひと言、御礼を」

槙は、画面を、伏せて置いた。伏せた画面のうえに、湯気の残りが、指の腹一枚ぶんだけ、乗った。

八号室の光の斜めの線は、装幀二案目の、朱の一点の位置に、まだ、まっすぐ、落ちていた。