序章「偽物の魔女」
第4話「偽物の誓い」
公開:2026.05.26 ・ 3,051文字
「……来てる」
セレナの声は、さっきよりも震えていた。
俺はリベリオを、もう一度振った。空気の中に溶けていた何かが、剣に引き寄せられる感覚。さっきより、鮮明だ。吸い込む量が、少し増えた気がする。
「そのまま、使ってみろ」
「……分かってる」
セレナの返事に、苛立ちはなかった。代わりに、何か怖いものを前にした時みたいな、静かな緊張があった。
アルカナ・コーデックスの硬玉が、うっすらと橙色に染まっている。セレナの指が、柄の部分をしっかりと握り直した。
彼女が、炎を出そうとしているのが分かった。名家の魔女として幼少期からたたき込まれてきた、火の詠唱。それを今、アルカナ・コーデックス越しに——。
何も起きなかった。
硬玉の光が、ふ、と消えた。セレナの息が短く乱れる。
「もう一回、やってみろ」
「言われなくても分かってる」
刺があった。それがかえって、こっちの肩の力を少し抜いてくれた。怒れているうちは、大丈夫だ。
リベリオを、また振る。
セレナが、もう一度、杖を構えた。
——何も起きなかった。
三度目。
俺は今度、リベリオを振る回数を増やした。空気が、前の二回より密度を増して吸い込まれていく感覚がある。たっぷり吸い込んで、全部、あの杖に。
セレナの詠唱が聞こえた。
聞こえた——というのは正確じゃないかもしれない。音というより、空気の変質、みたいなものを感じた。俺の後ろで、温度が変わる。
目を向けると。
セレナの手のアルカナ・コーデックスの先から、橙色の火が、ちいさく揺れていた。
蝋燭の炎と、大差ない。風でも吹いたら消えそうな、弱い火。名家の魔女が扱う炎のように、大きく、ほとばしることはない。
でも。
燃えていた。
炎は、確かに存在していた。
俺は、動けなかった。
セレナも、動かなかった。
しばらく、2人して、その小さな火を見ていた。朝靄の中で、橙の揺らぎだけが存在しているような、妙な静けさだった。
やがて、セレナの肩が、ゆっくり上下した。
「……使えた」
掠れた声だった。
「ああ」
俺が言うと、セレナは炎をそっと消した。掌を握り、ふ、と息を吐く。それだけのことなのに、なんだか時間がかかっていた。
セレナが、顔を俯けているのが見えた。
最初、何が起きているか分からなかった。だが、横顔が見えた瞬間——俺は、黙ることにした。
彼女の目から、涙が落ちていた。
「……やったな」
俺は、なるべく普通の声で言った。
セレナの肩が、跳ねた。
「——っ」
彼女は即座に顔を上げ、空を見て、目を細めた。瞬きを、三回。意地でも落ちないように、抑え込む動作だ。
「泣いてないから!」
「分かった分かった」
「見てたでしょ!」
「見てない」
「見てた!」
「目はそっちに向いてたけど、見てなかった」
「……詭弁」
セレナは、ふいと横を向いた。耳の先が、赤くなっていた。
俺は草の上に腰を下ろした。空は完全に白くなっていて、遠くの木立から鳥の声がした。さっきまで確かにあった何か特別な時間が、静かに普通の朝に戻っていく感じがした。
泣いてないから、か。
泣いてたよ、お前。
でもそれは、言わなくていいことだ。
少しして、セレナも草の上に座った。距離は、二人分ぐらい離れていた。
「この武器のことは、誰にも言えない」
俺は、朝の草を見ながら言った。
「……分かってる」
「祖父は『口外するな』と繰り返していた。理由は詳しく聞いていない。でも——名家でも、騎士団でも、この武器の存在を知る人間は、もう俺しかいない、はずだ」
「それは、どういう意味で言ってるの」
「このまま、誰にも知られずにいるべきだ、ということだ」
セレナが、短く息を吸った。
「魔女として、正式に認められたいなら——この手段は、知られてはならない。なぜ魔法が使えるのか、を問われた時に、答えられない」
「……そうね」
セレナは膝を揃え、ゆっくりと言った。
「アルカナ・コーデックス経由だと、分かるかしら」
「分からないと思う。発動した炎は、見た目には普通の火だった。問題は量だ。名家の魔女の火には、届いていない」
「……それは、練習すれば上がるものなの」
「祖父は何も言っていなかった」
俺は正直に答えた。セレナが微かに唇を曲げる。当然だ、何も保証できることはない。でも——さっきあの炎は存在した。それだけは、確かだ。
「聞きなさい」
不意にセレナが言った。声が、変わっていた。さっきの静かな声じゃない。グランハルト家の令嬢の声だ。背骨が真っ直ぐに伸びる感じがした。
「いい? わたしはグランハルト家の魔女として、絶対に認められてみせる。この偽物の手段を使ってでも」
俺は、彼女の横顔を見た。
「——だから、あんたはわたしの傍で剣を振り続けなさい。それが、あんたの責任よ」
口の端に、苦笑が浮かんだ。
「責任って」
「あんたが誘ったんでしょ。地下室に」
「まあ、そうだな」
「ならば責任を取りなさい」
俺は、少し考えた。考えるほどのことじゃないのは分かっていたけど、一秒くらい考えた。
「……はいはい、承知しましたよ、お嬢様」
「その呼び方、嫌い」
「お嬢様でしょうが、事実として」
「カイルと呼べばいいのか、セレナと呼べばいいのかでいつも迷ってるくせに、急に馴れ馴れしくしないで」
「言ってる意味が分からない」
「分からなくていい。とにかく——約束よ」
セレナがこちらを向いた。目力が強い。この目に見られると、どうにも頷くしかなくなる。
「ああ、約束だ」
俺は言った。
彼女は一瞬、何か言いかけて、黙った。その口がほんの少し緩んだのを、俺は見た気がしたけど——見ていないことにした。
翌朝、宿舎に一通の封書が届いていた。
封蝋には、エステリア王立魔法学院の紋章が押されていた。
開くと、一行目にこう書いてあった。
「パートナー契約を結んだ者は全員、王立魔法学院での基礎訓練課程を受けること。入学は来月初頭を予定する」
俺は、その紙を、もう一度読んだ。
まだ練習を始めたばかりで、火は蝋燭の大きさにしかならない。剣を振り続ける俺の右腕は、あれからずっと筋肉痛だ。秘密は、まだ秘密のままで、先のことは何も分かっていない。
でも。
確かに、新しい日々が始まろうとしていた。