序章「偽物の魔女」
第5話「学院の門」
公開:2026.05.26 ・ 2,753文字
門は、思っていたよりずっと大きかった。
鋳鉄の装飾が、見上げるほどの高さまで蔓のように伸びている。その向こうに、白い石造りの校舎が幾棟も並んでいた。塔が、空へ向かって何本も突き立っている。初夏の光が、屋根を眩しく照り返していた。
——でかい。それしか感想が出てこない。
門の前には、俺たちと同じ十六歳が、数えきれないほど集まっていた。あちこちで、契約を結んだばかりの男女が二人組で固まっている。緊張した顔、はしゃいだ声、不安げに俯いた肩。それが全部混ざり合って、ひとつの大きなざわめきになっていた。
「……人、多すぎ」
隣で、セレナがぽつりと言った。
「名家の令嬢が、それを言うのか」
「グランハルト家の催しは、こんなに無秩序じゃないわよ」
言いながらも、セレナの背筋はぴんと伸びたままだった。あの儀式の日からずっとそうだ。人前では、絶対に隙を見せない。
俺のほうは、平静を装っているつもりだった。装っているつもり、というのは——内心、まったく平静じゃなかったという意味だ。
いや待て、落ち着け。考えるな。考えれば考えるほど、足が重くなる。
この門をくぐった先は、毎日が「実技」だ。セレナが、人前で魔法を使う。あの、蝋燭ほどの小さな炎を。
「セレナさん、ですよね」
声をかけられたのは、門をくぐってすぐだった。
振り向くと、青みがかった黒髪の少女が立っていた。落ち着いた色合いの外套。穏やかに微笑んでいて、それだけで周りの空気がやわらかくなるような——そういう佇まいの娘だった。
「お噂は、かねがね伺っています。グランハルト家の。お会いできて嬉しいです」
「……あなたは」
「{ナディア・アズライト|Nadia Azlight}と申します。水の——アズライト家の者です」
その名に、セレナの肩がわずかに動いた。
アズライト家。四大名家のひとつ。水の名門。治癒と外交に長けた、穏健派の盟主格。名家に縁のない俺でも、知っている名前だ。
セレナの口調が、すっと切り替わった。名家モード、と俺が勝手に呼んでいるやつだ。
「ご丁寧に。わたくしはセレナ・グランハルト。こちらは、わたくしのパートナーの——」
「カイルだ」
俺が名乗ると、ナディアは俺にまで、丁寧に頭を下げた。名家の令嬢が、中級家庭の男にまで、分け隔てなく。それが嫌味でも演技でもなく、ごく自然にできてしまう。
——これが、本物の名家の魔女か。
ちらりと、セレナを見た。彼女は完璧な微笑を浮かべていた。完璧すぎるくらいに。その下で何を考えているのか、俺には、なんとなく分かってしまった。
ナディアが、穏やかに続けた。
「同じ学年ですね。これから、よろしくお願いします」
「ええ。こちらこそ」
セレナの声は、微塵も揺れていなかった。立派なものだ、と思う。同時に、少しだけ、胸の奥が苦しくなった。
入学式は、高い天井の講堂で行われた。
壇上に立ったのは、小柄な女性だった。短く切りそろえた銀髪。軍人のように無駄のない所作。体は小さいのに、広間じゅうの空気が、その一点に張り詰めていた。
「教官の、{エルザ・ヴァイスハウプト|Elza Weisshaupt}だ」
声は、低くて短かった。
「祝辞は言わない。時間の無駄だ。ひとつだけ言っておく」
ざわめきが、消えた。
「ここでは、家名は関係ない。名家の生まれだろうが、無名の家の出だろうが——この門をくぐった瞬間から、お前たちは等しく訓練生だ。実力だけが、ものを言う」
その言葉に、隣のセレナが、ほんの少し息を吸ったのが分かった。
奮い立った——ようには、見えなかった。むしろ、逆だ。
実力だけが、ものを言う。
なら、偽物の手段で灯した炎は、ここでは、どう扱われるんだ。
俺は、握った掌に汗をかいていることに気づいた。エルザの鋭い目が、広間をひと撫でする。一瞬、その視線が、こっちで止まった——気がした。気のせいだと、思いたかった。
その日の午後、さっそく実技があった。
訓練場は、石畳を敷き詰めた円形の広場だった。訓練生がひとり、またひとりと中央へ進み出て、自分の属性の基礎魔法を披露していく。パートナーの男は、その間、決められた圏内に立つ。一定の距離を越えれば、魔女の魔法は発動しない。それが、この世界のルールだ。俺も、その線の内側に立った。
ナディアの番が来た。
彼女が杖を掲げると、空中に水の球が生まれた。透き通った球は、陽の光を受けて螺旋を描き、訓練生たちの頭上をゆっくりと巡った。やがて無数の雫になって、霧のように消えていく。
誰かが、感嘆のため息をついた。
完璧だった。淀みも、無理もない。生まれた時から水と踊っていたような、そういう魔法だった。
そして、セレナの番が来た。
俺は、腰の鞘にそっと触れた。リベリオは、ただの護身用の剣の顔をして、旅装いに紛れている。抜くわけにはいかない。人前で、あれを振るうわけには、絶対に。
——だったら、どうする。
セレナが中央へ進み出た。銀灰色の髪が、初夏の風に揺れる。アルカナ・コーデックスを構える仕草だけは、完璧な名家の令嬢のものだった。
抜けない。振れない。なら、せめて——握る。
俺は、鞘に収まったままのリベリオの柄を、掌で包んだ。握り締める。振らなくても、触れているだけで、微かに、空気の中の何かが剣へ吸い寄せられていく感覚があった。振った時の、何分の一か。細い、細い流れ。
でも、無いよりは。
セレナの詠唱とともに、アルカナ・コーデックスの先に、橙色の火が灯った。
野原で見た時より——少しだけ、大きい。拳ひとつ分ほどの、揺れる炎。
でも、ナディアの水の後では、それは、あまりにもささやかだった。
炎が消えたあと、訓練生たちの間に、微妙な間があった。
あからさまな嘲りではない。ただ——「グランハルト家の令嬢にしては」という囁きが、潮の引くように広場の隅へ流れていった。セレナは顎を上げたまま、何も聞こえていない振りをして、列に戻ってきた。
俺は、彼女に何か言おうとして、やめた。今かけられる言葉を、ひとつも持っていなかった。
その時だった。
壇の脇に立っていたエルザが、セレナのほうを、じっと見ていた。
腕を組んだまま、眉を寄せるでも、呆れるでもなく。見慣れないものを検分するような目で。
そして、聞き逃しそうなほど小さく、呟いた。
「——面白い」
背筋が、冷えた。
本当に聞こえたのか、聞こえた気がしただけなのか、自分でも分からない。でも、その一言は、妙に耳の奥に残った。
もうひとり。
広場の向こうで、ナディアもまた、セレナを見つめていた。
穏やかな微笑みは、崩れていない。崩れてはいない。けれど——その瞳の奥に、何かに気づいてしまった者の色が、確かにあった。
いや待て。考えすぎだ。落ち着け。落ち着け落ち着け——。
そう自分に言い聞かせながら、それでも俺は、はっきりと感じていた。
学院の門を、俺たちは、もうくぐってしまった。
後ろにはもう、戻る道がない。