序章「偽物の魔女」
第6話「正しい魔女」
公開:2026.06.02 ・ 2,709文字
学院の朝は、鐘の音で始まる。
寮の窓から差し込む光で目を覚まし、まだ眠そうな顔の訓練生たちと一緒に食堂へ流れ込む。配られるのは麦の粥とパンと、薄い果実水。名家の城砦で育ったセレナには物足りないだろうと思っていたが、彼女は文句ひとつ言わずに匙を動かしていた。
「意外だな」
「何が」
「お前なら、もっと文句を言うかと思った。粥が薄いとか、椅子が硬いとか」
「……勘違いしないで。ここでは家名は関係ない。教官がそう言ったでしょ。だったら、わたしも訓練生のひとりとして振る舞うだけよ」
そう言って、セレナはパンの最後のひと欠片を口に放り込んだ。背筋はいつも通り、ぴんと伸びている。
俺は、ほんの少しだけ、ほっとしていた。あの儀式の日からずっと張り詰めていた彼女が、ここでは少しだけ、息ができているように見えたから。
「おーい! カイルー!」
訓練場へ向かう回廊で、聞き慣れた声が追いかけてきた。
振り返ると、茶髪を陽に光らせたリオンが、人混みを掻き分けて駆けてくる。その後ろから、長い黒髪の少女が穏やかな足取りでついてきた。ミラだ。
「お前らも同じ組かよ! うわ、最高じゃん。知らねぇ顔ばっかりで、正直ちょっと心細かったんだよな」
「お前が心細いとか、嘘くさいな」
「ひでぇ! 俺だって緊張くらいするっつーの」
からからと笑うリオンの横で、ミラがセレナに小さく会釈した。
「セレナ、おはよう。同じ組だね。よかった」
「……ええ。よろしく」
セレナの口調は素っ気ない。でも、その眦が、ほんの少しだけ和らいだのを、俺は見逃さなかった。
契約の夜に偶然出会った、たった二組の同年代。学院という見知らぬ海の中で、この四人で固まっていられるというだけで、肩の力がふっと抜けるのが分かった。少なくとも、ここには、隠さなくていい時間がある。
その安心は、午前の合同訓練であっさり揺らいだ。
訓練場の一角で、小さなざわめきが起きていた。人垣の中心にいたのは、ナディアだった。
訓練中に足を挫いた男子訓練生が、石畳に蹲っている。ナディアは膝をつき、その足首にそっと杖をかざした。淡い青の光が滲み出て、腫れた肌を包んでいく。ほんの十数秒で、男子は「……治った」と呆れたように足首を回した。
「無理はしないでくださいね。痛みが残るようなら、また来てください」
穏やかに微笑むナディアに、周りから感嘆と感謝の声が上がる。彼女の周りには、いつのまにか何人もの訓練生が集まっていた。誰に対しても分け隔てなく、自然に手を差し伸べる。それが演技でも施しでもなく、息をするようにできてしまう。
「すごいね、アズライト家の人」
リオンが、素直に感心した声で言った。
俺は、隣のセレナを見た。
彼女は、完璧な微笑みでその光景を眺めていた。完璧すぎるくらいに。誰かが「さすが名家の魔女ですね」と話を振れば、「ええ、見事なものですね」と淀みなく応じる。
でも、俺には分かってしまった。
ナディアの隣に立つたび、セレナの中で、自分の輪郭が薄れていくのが。本物の名家の魔女がそこにいるだけで、偽物の炎しか灯せない自分の偽物さが、鮮やかに際立っていく。
名家モードの微笑みの下で、彼女がどれだけ歯を食いしばっているのか。それを、たぶん、この広場で気づいているのは、俺だけだった。
その日の夕方、セレナは一人で訓練場に残った。
他の訓練生が寮へ引き上げた後の、誰もいない円形の広場。茜色に染まった石畳の上で、彼女はアルカナ・コーデックスを構え、黙々と火を灯し続けていた。
俺は、決められた圏内の隅に立ち、鞘に収まったままのリベリオの柄を握る。抜けない。振れない。だから、ただ握って、空気の中のマナを手繰り寄せる。指先に集めるみたいに、意識を研ぎ澄ます。
でも、握っているだけでは、剣に吸い込まれる流れはあまりにも細い。
セレナの炎は、昼間と同じ。拳ひとつ分。それ以上は、伸びない。
「……振れないと、これが限界か」
俺は、つい呟いていた。
セレナの手が止まった。
「あんたのせいじゃない」
意外な言葉だった。八つ当たりでも皮肉でもなく、ただ、淡々と。
「送られてくる分で、わたしが出せる火が、これなだけ。あんたは、ちゃんとやってる」
「……お前なぁ」
言葉が、続かなかった。彼女は背を向けたまま、また杖を構え直した。橙色の小さな火が、暮れていく広場に、頼りなく揺れた。
「セレナは、頑張りすぎだよ」
声をかけたのは、いつのまにか戻ってきていたミラだった。
忘れ物を取りに来たのだと言って、彼女はセレナの傍にそっと歩み寄った。
「みんな帰ったのに、一人でこんな時間まで。……無理してるの、見てて苦しいよ」
セレナの肩が、わずかに強張った。いつもなら「余計なお世話よ」と撥ね付けるところだ。現に、口を開きかけた。
でも——出てきたのは、違う言葉だった。
「……わたし、怖いの」
小さな声だった。
「ナディアさんを見てると。あの人の隣に立つと、自分が、何もない人間みたいに思えてくる。本物の前では、偽物は——」
そこで、言葉は途切れた。言いすぎた、とでも思ったように、セレナは慌てて唇を結んだ。
ミラは、何も言わなかった。ただ、隣に並んで、一緒に暮れていく空を見上げた。答えを急かさない優しさが、そこにはあった。
俺は、圏内の隅で、何も言えずに立っていた。セレナの「怖い」を、俺は初めて聞いた気がした。
翌朝の食堂で、それは何気なく訪れた。
ナディアが、盆を手にセレナの向かいに腰を下ろしたのだ。周りには、昨日の治癒を見た訓練生たちが集まっている。
他愛のない話が続いた。授業のこと、寮の食事のこと。セレナも、名家モードで如才なく応じていた。
そして、ナディアが、果実水の杯を置きながら、ふと言った。
「そういえば」
穏やかな、春の水面のような声だった。
「昨日の、セレナさんの炎。少し、不思議ですね」
食堂の喧騒が、俺の耳から消えた。
「火の属性の方の炎って、芯から熱を放つ感じがするんです。でも、セレナさんの火は——外から灯されたみたいな。うまく言えませんけど」
微笑みは、崩れていない。敵意も、追及も、そこにはない。ただ、見えてしまったものを、素直に口にしただけ。それが、かえって恐ろしかった。
セレナの微笑みは、微塵も揺らがなかった。
「そうでしょうか。家風の違いかもしれませんね」
「ふふ、そうかもしれません」
ナディアは、あっさりと話題を変えた。深い意味など、なかったように。
でも、俺の背筋を流れた冷たいものは、消えなかった。
外から灯されたみたいな火。
——当たっている。何も知らないはずの、この穏やかな魔女が、偽物の核心の、ほんの入口に、触れていた。
握り締めた掌に、また汗がにじむ。
本物の隣は、こんなにも、近い。