第一章「仮面の日々」
第15話「教官の眼差し」
公開:2026.08.11 ・ 2,803文字
放課後の第三訓練場に、夕の光が斜めに差し込んでいた。
終業の鐘が鳴り、生徒たちがぞろぞろと引き上げていく。夏の夕は長い。石畳に溜まった昼の熱が、足の裏からまだ立ちのぼってくる。俺もリオンたちと歩き出そうとした、その時だった。
「グランハルト。残れ」
短い声だった。エルザ教官の言葉には、いつも無駄がない。
セレナの肩が、ほんのわずかに強張るのが見えた。他の誰にも分からない程度の、針の先ほどの硬さ。俺にだけ分かる。
「……はい」
名家モードの、完璧な返事だった。
俺が足を止めると、エルザの鋭い目がこちらを射た。短い銀髪。小柄なのに、立っているだけで空気の密度が変わるような人だ。
「ヴェルデン。お前は場外で待て」
心臓が、嫌な打ち方をした。
(——場外。見るな、ってことか)
断る理由がない。魔女の個別指導にパートナーが立ち会わないのは、学院ではよくあることだ。パートナーの男が五百メートルの内側にいさえすれば、魔法は発動する。世界の当たり前だ。
だが俺たちには、当たり前じゃない。
俺が見えないということは、セレナの火が見えないということだ。見えないまま、リベリオでマナを送り続けなければならないということだ。
「……分かりました」
俺は一礼して、訓練場を出た。
外壁の通用口の脇に、背を預けて座り込む。
石の壁は昼の熱を吸って、シャツ越しにじんわりと熱い。半開きの門の隙間から、中の声だけが細く漏れてくる。姿は見えない。声だけ。
布で包んだリベリオの柄を、膝の上で握った。
途端に、夕の空気が剣へ吸い込まれていく感覚が手のひらに立ちのぼる。何度味わっても慣れない。世界に満ちているはずのマナが、確かにこの鞘の中へ流れ込んで、そして——どこか遠くへ抜けていく。セレナの杖へ。
(握りすぎるな。緩めすぎるな)
いつもなら、彼女の火を見ながら調節できる。細すぎれば握りを深く。強すぎれば指を緩める。目で見て、合わせる。
今日は、何も見えない。
手探りで、命綱を送っているようなものだった。
「もう一度」
壁の向こうから、エルザの声。
短い沈黙のあと、ぼう、と空気の鳴る音がした。火だ。見えなくても音で分かる。セレナの火は、立ち上がる時に必ずわずかな間を置く。本物の魔女の火が「灯る」なら、セレナの火は「届く」。
「次。絞れ」
「はい」
「散った。もう一度」
容赦がなかった。五度、十度。エルザは同じ課題を、角度を変えて繰り返させている。炎の太さ、持続、立ち上がりの速さ——火という現象を、分解して検分するみたいに。
(探ってる)
背筋が冷えた。
(褒めるためじゃない。測ってるんだ、この人は)
入学したばかりの頃——最初の実技で、エルザは一瞬だけ目を細めた。「面白い」と呟いた。あれから数か月。俺はすっかり忘れかけていた。
教官は、忘れていなかった。
手のひらに汗が滲む。握りが滑る。慌てて握り直した瞬間、マナの流れが一拍途切れた。
「——止まったな」
エルザの声が、鋭く変わった。
喉が鳴った。見られている。俺の手元が、壁の向こうから見られている気がした。ちがう、見えるはずがない。見えているのは、セレナの火が一瞬痩せたことだけだ。
だが、それで充分だったのだ。
「グランハルト」
壁の向こうで、エルザが歩く音がした。軍人のような、無駄のない足音。
「お前の火はな」
夕の風が止んだ。蝉の声まで遠のいた気がした。
「器の外から注がれているように揺れる」
——息が止まった。
「普通の魔女の火は、内側から膨らむ。芯があって、そこから外へ広がる。イレーネ・ヴァルクの火がそうだ。だがお前のは逆だ。外から満ちて、内が追いつかない。まるで——」
一拍。
「自分の内から、燃えていない」
(——言い当てられた)
俺は壁に背を擦りつけたまま、動けなかった。指先が冷たい。リベリオの柄が、汗でぬるついている。
(止めるか。今ここでマナを切れば、揺れは消える。偽物の証拠も消える。——代わりに、セレナはただの魔法の使えない令嬢に戻る。名家の恥に戻る。それは、あいつを殺すのと同じだ)
握った。緩めなかった。
綱渡りの綱の上で、立ち止まる選択肢だけがなかった。
壁の向こうで、セレナは何も言わなかった。あいつの沈黙が、俺には見えるようだった。背筋を伸ばして、顎を引いて、仮面が割れないようにあらん限りの力で押さえている顔。
長い、長い沈黙だった。
やがて、エルザが息を吐いた。
「——だが」
声の質が、変わった。
「弱くはない」
俺は顔を上げた。
「外から注がれる火を、お前はよく絞る。持ち時間の短さを知っているから、一発に賭ける見切りが早い。距離の取り方も、風向きの読みも、同期の誰より丁寧だ。ヴァルクの娘は、お前の半分も考えて火を出していない」
「……教官」
「魔女の質を、炎の太さだけで測る奴は三流だ」エルザは言い切った。「お前は普通の魔女より、よほど頭を使っている。胸を張れ」
壁の向こうから、小さな音がした。
息を呑む音か、呑み込む音か。たぶん、両方だ。
——追及は、それ以上来なかった。
あれだけ核心の一歩手前まで踏み込んでおいて、エルザはその一歩を踏まなかった。踏まないと決めていたのだ、最初から。
(——追い詰めるための目じゃ、なかったのか)
俺はようやく理解した。あの入学の日から今日まで、教官がセレナから目を離さなかったのは、暴くためじゃない。育てるためだ。
この人は、ずっと見守っていた側だった。
門が開いて、セレナが出てきた。
顔色が白い。だが歩き方は、いつもの通りだった。俺の前で足を止めて、目を合わせないまま、ぼそりと言う。
「……聞いてたわね」
「壁が薄いのが悪い」
「最低」
罵った声が、少し震えていた。セレナはアルカナ・コーデックスを胸に抱え直して、夕の光の中でうつむいた。
「……あの人に、嘘をつくのは」
「うん」
「思っていたより、ずっときつい」
初めて聞く種類の弱音だった。父に責められても、イレーネに挑まれても、ヴィクトに囁かれても、こいつは一度も折れなかった。折れかけたのは、褒められた時だ。
何か言おうとして、言葉が見つからなかった。結局俺は、腰の布越しにリベリオを軽く叩いて、こう言った。
「……胸、張っとけよ。教官がそう言ったんだ」
セレナは何も答えず、先に歩き出した。
その背中が、ほんの少しだけ真っ直ぐになっていたのを、俺は見なかったことにした。
訓練場の門を閉めながら、エルザが独り言ちるのが聞こえたのは、俺たちが十歩ほど離れた時だった。
夕の風が運んできた、独り言。
「——あの揺れ方」
俺の足が、止まりかけた。
「どこかで見た気がするな」
振り返る勇気はなかった。
エルザ・ヴァイスハウプトは三十代後半だ。十六の俺たちが生まれるより前から、彼女は魔女として戦場に立っていた人だ。
(どこかで見た——?)
偽物の火を。器の外から注がれる、あの揺れ方を。
夏の夕暮れは、まだ明るい。なのに俺の背中だけが、妙に冷えていた。