第一章「仮面の日々」
第14話「風の名家」
公開:2026.08.04 ・ 2,768文字
朝の教室に、見かけない顔が一つ増えていた。
窓際の席。夏の光を背に受けて、銀髪のショートカットの少年が、頬杖をついて座っている。細身で端正な横顔。口元には、いつでも薄い笑みが張りついていた。
見覚えがあった。忘れるはずもない。
序章の終わり——学院の入学案内が届いたあの頃、「視察」と称して一度だけ姿を見せた男。風の名家、ゼフィリア家のヴィクト・ゼフィリア。あの時、俺の腰のリベリオに目を留めて、「面白い形をしていますね」と囁いていった少年が——今、同じ教室の椅子に座っている。
「短期編入のヴィクト・ゼフィリアです。ゼフィリア家の風を、みなさんの訓練に役立てられればと思っています。——どうぞ、よろしく」
立ち上がって一礼する所作は、名家らしく隙がなかった。教室のあちこちで、好意的なざわめきが起きる。
(——偶然じゃ、ないよな)
胸の奥で、冷りとしたものが疼いた。
ヴィクトの馴染み方は、異様なほど速かった。
昼を迎える頃には、彼はもう教室の半分の名前を覚えていた。誰に話しかけるにも、相手が一番触れてほしい話題を的確に選ぶ。剣の自慢がしたい奴には剣を、属性に自信のある魔女にはその属性を。たった半日で、彼は教室の人間関係という地図を、頭の中にすっかり描き上げているように見えた。
そして——昼の訓練場で、彼は俺の隣に来た。
「ヴェルデンさん、でしたね」
薄い笑みのまま、ヴィクトは俺の腰に視線を落とした。
「あの剣——まだ、大切にされているんですね」
心臓が、一拍跳ねた。
(落ち着け。ただの世間話だ。布で包んだ柄を、ちらっと見ただけ——いや、ちがう。この男は、見てない振りをして、ぜんぶ見てる)
「……形見だからな」俺は、できるだけ何気なく返した。「父方の祖父の。錆びてて、抜くほどのもんでもない」
「そうですか」ヴィクトは目を細めた。笑っているのに、目の奥だけが笑っていない。「錆びた剣を、肌身離さず——いいですね。そういうの、嫌いじゃありません」
それだけ言うと、彼はまた別の誰かのところへ、風のように流れていった。後に残ったのは、名指しされたわけでもないのに見透かされたような、嫌な余韻だけだった。
「おい、ヴェルデン」
訓練の合間、ガレスが野太い声で肩を寄せてきた。赤毛の短髪を汗で濡らし、顎でヴィクトの方をしゃくる。
「あの銀髪、どう思う」
「……どう、とは」
「俺はな」ガレスは腕を組み、めずらしく声を低くした。「ああいう、笑って何考えてっか分かんねぇ奴は、苦手だ。土の名家ってのは、正面からぶつかって分かり合うもんでな。裏で何勘定してるか読めねぇ相手ってのが、どうにも肌に合わねぇ」
豪快な男の、率直な嫌悪だった。名家といっても、土と風では気風がまるで違う。正面から腕を組み合うガレスと、風のように掴みどころのないヴィクト——同じ四大名家でも、ここまで温度が違うのかと、俺は妙に感心した。
「まあ、気をつけとけ」ガレスはぽん、と俺の背を叩いた。「ああいうのは、仲良くなったつもりの相手から、一番深く刺してくる」
その言葉は、妙に胸に残った。
放課後の中庭で、ナディアと行き合った。
水の名家、アズライト家の令嬢。青みがかった黒髪を夕の風に揺らして、彼女は穏やかに微笑んだ。
「ヴェルデンさん。今日、編入の方が来られましたね」
「……ああ。風の名家の」
「ヴィクトさん」ナディアは、その名を丁寧に口にした。「人の心を読むのが、お上手な方ですね。一日で、みなさんの距離感を、ちゃんと測っておられた」
さすが、と俺は思った。穏やかな顔をして、ナディアもまた、ヴィクトの手管を正確に見ていた一人だ。
「……でも」
ナディアは、少しだけ声を落とした。中庭の噴水の音に、その言葉が溶けていく。
「ご自分の心は、見せない方」
静かな断定だった。柔らかいのに、芯のある声。彼女のこういう一言は、いつも核心をそっと撫でていく。
「人の心ばかり読んで、自分の心をずっと隠している方は——たぶん、寂しいんだと思います」
俺は、その横顔を見た。ナディアの観察眼は、いつも敵意のないところが恐ろしい。彼女はヴィクトを警戒しているのではなく、ただ憐れんでいた。
その夜のことだった。
寮へ戻るセレナを、俺は回廊の角で待っていた。月が高い。石畳の上に、柱の影が長く伸びている。
——そこに、もう一つ、影があった。
銀髪が月あかりに淡く光る。ヴィクトだった。彼はセレナの前に立ち、いつもの薄い笑みで、何かを囁いている。俺の足が、とっさに止まった。
「グランハルト家のご令嬢が」
風に乗って、その声が切れ切れに届く。
「なぜ、そんなに必死なんでしょうね」
セレナの背が、わずかに強張った。俺は柱の陰で、息を殺す。
「名家の令嬢なら、もっと余裕を持っていてもいいはずだ。なのに、あなたは——いつも何かに追われている。まるで」
ヴィクトは、そこで一度言葉を切った。薄い笑みが、月あかりの中でほんの少し深くなる。
「——隠したいものでも、あるみたいに」
夜の空気が、一瞬凍りついた。
セレナは答えなかった。答えられなかった、というほうが正しい。仮面の下で、彼女が必死に呼吸を整えているのが、離れていても分かった。その背を、冷たい汗が一筋伝っていく——そんな気がした。
「……なんのこと、かしら」
ようやく絞り出した声は、名家モードの丁寧さで取り繕われていた。見事な仮面だった。だが俺には分かる。その丁寧さは、崖っぷちで足を踏ん張る時の、彼女の癖だ。
「いえ」ヴィクトは、あっさりと引いた。「偶然、そう見えただけかもしれません。——夜分に、失礼しました」
一礼して、彼は風のように回廊を去っていく。追及も、追撃もない。ただ、相手の反応という一片の情報だけをそっと懐にしまって。
俺は、柱の陰から歩み出た。
「……セレナ」
彼女は、俺を見なかった。ただ、強く握りしめたアルカナ・コーデックスの杖が、月あかりに白く浮かんでいた。
「聞いてたの」
「……ぜんぶじゃない。けど」
セレナは長く息を吐いて、ようやく肩の力を抜いた。いつもの勝ん気な目に、今はほんの少しだけ、隠しきれない怯えが滲んでいる。
「……あの風、嫌いよ」セレナは吐き捨てた。「何も斬らないくせに、一番深いところまで吹き込んでくる」
ガレスと同じことを、別の言葉で言っていた。俺は苦笑して、腰のリベリオに手を添えた。抜かない剣。隠し続ける秘密。風の名家の目が、今日からこの学院の中にある。
「大丈夫だ」俺は、静かに言った。「読まれてるのは、お前が必死だってことだけだ。中身までは、まだ届いてない」
「……まだ、でしょ」
「ああ。だから——もっとうまく隠す。二人で」
セレナは何も言わなかった。けれど、ほんの少しだけ、俺の歩調に合わせて歩き出した。月あかりの回廊に、二人の影が並ぶ。
風の名家が吹かせた冷たい風は、まだ止みそうにない。