第一章「仮面の日々」
第19話「噛み合わぬ二人」
公開:2026.09.08 ・ 3,042文字
街道を西へ走った。
葉の天井の下は夕方よりも暗く、地面から飛び出した根が何度も爪先を掴んだ。前を行くガレスの背中が、土の魔女を庇うように大きく張っている。その向こうにレイナードの金髪と、イレーネの揺れる髪。
背後で、森が鳴り続けていた。
一歩ごとに枝が折れる。幹が裂ける。足音と呼ぶには重すぎる音が、確実に間隔を詰めてくる。
(追ってきてる)
(あの体で、この隘路を、俺たちより速く)
布越しの柄が、走っているあいだも脈を打ちっぱなしだった。吸っているんじゃない。吸わされている。森一つぶんのマナが向こうへ流れていく渦の端に、俺の剣が巻き込まれているだけだ。
「散開——」
エルザ教官の声が途中で切れた。
右の斜面が、崩れたのだ。
土砂と折れた木が街道を横から塞いだ。視界が茶色く潰れ、誰かの叫び声が土の壁の向こうに遠のいていく。
咳き込みながら顔を上げた時、俺の視界に残っていたのは、銀灰色の髪一つだけだった。
「セレナ」
「……いるわよ」
土を払って立ち上がる。杖は離していない。それだけは、こいつは絶対にやらない。
反対側——崩れた土の向こうから、押し殺したガレスの怒鳴り声が聞こえた。掘っている音もする。だが、間に合う速さじゃない。
足元の土が、一度だけ短く跳ねた。
振り向く。
青白い光が、木立の隙間を塗り潰しながら近づいてきていた。
最初に見えたのは前肢だった。
幹かと思った。狼に似た形をしているのは辛うじて分かる。だが昼過ぎに相手をしたあの四つとは、寸法の桁が違った。肩が葉の天井を突き上げ、折れた枝が背中に何本も刺さったままになっている。刺さっているのに、気にもしていない。
毛のあいだを走る青白い脈は、もう脈ではなかった。一枚の布のように、全身が光っている。
リベリオが、喉を鳴らすように震えた。
「……カイル」
「下がるな。離れたら終わりだ」
皮肉な話だった。契約の力は、互いが一定の距離の内にいなければ働かない。普段は意識もしない決まりが、今この森では鎖だ。
逃げられない。散らけられない。
二人で並んで立つ以外に、選べる形がない。
いつもは意味のない規則だと思っていた。学院の座学で最初に習う、誰も疑わない当たり前のこと。五百メートル。その中にいなければ、魔女の火も、男の体も、ただの人間に戻る。
その当たり前が、今は手枷の形をしている。
俺が一人で囮になることも、こいつを先に逃がすこともできない。生きるにしても死ぬにしても、同じ円の中だ。
最初の突進は、避けるというより落ちて逃れた。
斜面を転がりながら、俺は鞘の握りを固め直す。一本の太い線にする。三つ数えろ——そう叫ぼうとして、喉で止まった。
数える時間が、ない。
セレナの火は出た。出たが、魔獣が通り過ぎた後の空を焼いた。
「待ちなさいよ、今——」
「待てない!」
二撃目。尾が横に薙いだ。俺は前に出て受け、受けた分だけ握りが崩れ、崩れた分だけ火が痩せた。痩せた火は硬い毛を撫でて消えた。
三撃目で、俺たちは何もできなかった。
(同じだ。昼と同じことをやってる)
俺が振れば火が細る。振らなければ的が止まらない。見て、合わせて、数えて、撃つ。訓練場で何百回も繰り返した手順が、そのまま足枷になっている。
相手は、俺たちが合わせ終わるのを待ってくれない。
泥のなかで膝をついた時、片目の老騎士の声が降りてきた。
——相手を見てから動くやつは、必ず一手遅い。
あの朝、何度も頭を叩かれた言葉だ。見るな、読め、と老人は言った。読むのは相手じゃない。自分の足だ、と。
顔を上げる。
セレナが、杖を抱えて俺を見ていた。次の合図を待っている目だ。
待たせては、駄目なのだ。
「セレナ。もう俺を見るな」
「……は?」
「数えるのもやめろ。俺を見ないで、俺が行く場所に先に置け」
一瞬、銀灰色の睫毛が止まった。
それから、吐き捨てるように言った。
「——分かるわけないでしょ、あんたの行く場所なんて」
「嘘つけ」
俺は立ち上がった。
「春から今日まで、毎日隣にいたのは誰だ」
セレナが何か言い返そうとして、やめた。
代わりに、杖を抱えるのをやめた。肘が下がり、先端が斜めに地面へ向く。名家の教本には絶対に載っていない構えだ。
的を狙う形じゃない。場所に置く形だった。
魔獣が沈み込んだ。
跳ぶ。俺はそれを見る前に、左へ走り出していた。
見ていない。読んでいる。右の前肢が昼の個体と同じ癖で地面を掻いた——なら、着く先は俺の左だ。
背後で、熱が生まれた。
俺が向かう先の地面に、細い火が一条、先に置かれていた。狙っていない。置いてある。待ち伏せみたいに、そこで燃えている。
着地した巨躯の右の前肢が、その火を踏んだ。
硬い毛は焼けない。だが、熱い地面からは足が逃げる。逃げた分だけ、肩が内側に傾いた。
傾いた側に、俺はもういた。
「そこ!」
叫んだのは俺じゃない。セレナだ。俺が肘を入れる位置を、こいつは俺より先に言っていた。
会話は、一つも噛み合っていない。
「どこ見てんの馬鹿!」
「お前が見てないだけだろ!」
罵り合いながら、足だけが寸分違わず組み合っていく。
火が置かれる。俺がそこへ追い込む。俺が踏み込む。その先に、また火が待っている。
五つ、六つ。
巨躯の進路が、少しずつ曲げられていた。
斬っていない。焼き殺してもいない。置かれた火を避け、差し出された鞘を嫌い、それを何度も繰り返すうちに、この獣は自分の足で隘路の一番狭いところへ入り込んでいた。
レイナードが昼にやっていたことを、俺たちは今、裏返しにやっている。
あいつは向きを変えさせてから焼いた。俺たちは、焼く場所を先に決めてから追い込んでいる。
順番が逆なだけだ。逆でいい。俺たちには最初から、正しい順番が使えなかった。
七つ目で、魔獣が顎を開いた。
喉の奥に、青白い光が溜まるのが見えた。
吐く。
避ける場所はない。斜面と土砂に挟まれた隘路で、左右は死んでいる。
前だけが、空いていた。
俺は前へ出た。
握りは、崩さない。柄を抱えたまま、鞘の反りを下から顎の関節に当てる。斬らない。押し上げる。百貫の頭を、一寸だけ天に向けさせるための、一寸の仕事だ。
手首の骨が鳴った。
顎が、跳ねた。
喉の付け根が、葉漏れの光の下に剥き出しになる。
——そこに、火はもう置かれていた。
俺が押し上げる前から、セレナはそこに置いていた。細い。イレーネの炎とは比べものにならない、一条の頼りない火。
絞り切った一点が、剥き出しの喉に吸い込まれた。
光が、内側から消えた。
全身を覆っていた青白い布が音もなく褪め、巨躯は前へ折れ、地面に崩れた。
地響きで俺の膝も落ちた。
土の壁が、外側から弾けた。
掘り抜いてきたガレスが最初に飛び込み、そのまま足を止めた。
続いて入ってきたイレーネが、崩れた巨躯を見て、それから泥まみれの俺たちを見た。
「……なにあれ」
答えられる余裕が誰にもなかった。セレナはまだ杖を下ろしていない。肩が壊れた風車みたいに上下している。
その後ろで、レイナードが立ち止まっていた。
剣を抜いた姿勢のまま、何も言わない。昼に俺を一瞥した時の冷やかさが、顔から抜け落ちている。
学院首席が黙っていた。それだけで、何かを勝ち取ったような気になった。
——なりかけた。
気づいてしまったのだ。
彼の目は、崩れた魔獣を見ていなかった。俺の鞘も、見ていない。
喉の付け根で、まだ細く燃え残っている火の——その揺れ方だけを、見ていた。
冷たい青い目が、一度だけ瞬きした。
俺は知っている。あれは驚いている目じゃない。
数えている目だ。