第一章「仮面の日々」
第20話「首席の答え」
公開:2026.09.15 ・ 3,020文字
隘路の森から学院へ戻って、三日が過ぎた。
中庭の楡が、いつのまにか先の方から色を変えている。出発した朝はまだ夏の名残で汗ばんでいたのに、帰ってきたら風の匂いが変わっていた。森にいたのは五日だ。五日で季節が動くはずもない。動いたのは、たぶん俺たちの方だ。
討伐の報告書はエルザ教官が全部まとめてくれた。俺たちが書いたのは、経過を三行だけ。
どうやってあれを仕留めたのか、誰にも詳しくは聞かれなかった。
聞かれなかったことが、かえって落ち着かない。
(誰も聞かないってことは)
(聞く必要がないくらい、もう見られてたってことだ)
その日の午後、講義棟の裏でレイナードに呼び止められた。
人気のない場所だった。石壁に囲まれた資材置き場で、片側に薪が積んである。誰かに聞かれたくない話をするために選んだ場所だと、一目で分かった。
「時間を取らせる。すぐ終わる」
レイナードは前置きもなしに、革表紙の手記を開いた。
厚い。指が押さえたページの端が、何度もめくられて丸くなっている。
「四月の十九日。基礎実技、初回。ここから記録を取り始めた」
「……趣味が悪いな」
「事実を集めているだけだ」
ページがめくられる。びっしりと数字と短い文が並んでいた。日付、時刻、気温、距離、そしてセレナの火の——出力、色、持続、揺れ幅。
「五月、安定しない。六月、改善。七月、イレーネとの模擬戦。ここが一番はっきりした」
彼の指が、一行の上で止まった。
「炎の根元が、点いた後に一度細る。全部だ。例外がない」
俺は黙っていた。
「魔女の火は器から出る。器から出るなら、最初がいちばん太い。押し出されるからだ」
薪の山の影が、石壁の上で少しだけ伸びた。
「彼女の火は逆だ。最初が細くて、後から太る。——外から注がれているみたいに」
背中に汗が伝った。
エルザ教官も、同じことを言った。器の外から注がれている、と。ただしあの人は、そこで止めた。
この男は、止まらない。
「結論を言う」
レイナードが手記を閉じた。
「セレナ・グランハルトの火は、本人の器から出ていない」
石壁のあいだを、乾いた風が抜けた。
否定する言葉を探した。三つくらい浮かんで、三つとも自分で潰した。この男が半年分の紙で積み上げたものを、俺の言葉一つで崩せるわけがない。
「……それで?」
声が掠れた。
「教官に出すのか。それとも学院長室か」
「出すつもりなら、君をここに呼ばない」
薪の匂いの中で、俺は一瞬、言葉の意味を取り損ねた。
「不正の証拠なら、もう足りている。僕が知りたいのはそこじゃない」
初めて、彼の声がわずかに揺れた。
「なぜ君たちは、それでも戦えるんだ」
「……は?」
「あの森で、君たちの連携は僕のものより速かった。会話は一つも噛み合っていなかったのにだ。訓練で作れるものじゃない。信頼で作れるものでもない」
彼は薪の山に目を落とした。
「借り物の力で、あそこまで踏み込める理由が分からない。——分からないものを、僕は放っておけない」
ああ、と思った。
この男は、正しさで人を裁きたいわけじゃない。ただ、世界に説明のつかない欄が一つでも残っているのが、耐えられないのだ。
だから半年も紙を積んだ。
「レイナード」
俺は初めて、こいつの名前を呼んだ。
「あんた、名家じゃないよな」
金髪の下で、青い目がわずかに細くなった。
「関係のない話だ」
「関係あるだろ。俺も名家じゃない。だから分かる」
言葉が、喉から勝手に出てきた。
「名前を持ってない奴が上に行くには、正しくあるしかない。誰にも文句を言わせない形で、正しくあるしかない。——あんたは、それで首席になった」
「だから?」
「だから、その正しさは、いつか誰かを殺すぞ」
乾いた音を立てて、薪が一本、山から落ちた。
「セレナは家の名前を背負ってる。あんたが正しいことを正しい手順で報告した日に、あいつが失うのは学院の席じゃない。帰る場所だ」
「……僕は、事実を」
「事実は人を殺せる。あんたが一番よく知ってるはずだ」
レイナードは、何も言い返さなかった。
完璧な姿勢が、ほんの少しだけ崩れていた。首席の背中から、いつも張り詰めている糸が一本、抜け落ちたように見えた。
「……考える」
それだけ言って、彼は手記を懐に戻した。
去り際、立ち止まって背中越しに言った。
「一つだけ訂正する。さっき僕は、借り物の力と言った。——あれは、取り消す」
寮へ戻る途中、井戸の脇でセレナに出くわした。
水を汲む手を止めて、こちらを見る。それから眉を寄せた。
「……顔、白いわよ」
「疲れてるだけだ」
「嘘」
即答だった。
言うべきか迷って、迷ったまま口を開いた。
「レイナードに呼ばれた」
桶の縁が、石に当たって小さく鳴った。
セレナは何も聞かなかった。聞けば答えが返ってくると分かっていて、それでも聞かなかった。
代わりに桶を持ち上げて、顔を背けたまま言った。
「……今日は、早く寝なさい」
それだけだった。
名家の令嬢が使う言葉じゃない。命令の形をした、一番不器用な心配の仕方だ。
夕方、オルドーの小屋へ向かった。
稽古場代わりの裏庭には、落ち始めた葉が薄く積もっていた。老人は木剣を二本、いつものように地面に転がして待っていた。
打ち込みは百に届かなかった。
六十を数えたあたりで、老人の木剣が止まったからだ。
「……もういい」
「まだ息は上がってません」
「そうじゃない」
布で覆っていない方の目が、俺を見ていた。
「抜かぬまま強くなったな」
手が、震えた。
この半年、この人は一度も俺を褒めなかった。筋は悪くない、が最上級だった。
「森で、鞘のまま仕留めたそうだな。関節を下から」
「……はい」
「力任せか」
「いえ。押し上げただけです。一寸だけ」
オルドーは、鼻から短く息を吐いた。笑ったのだと、少し遅れて気づいた。
それから木剣を拾って肩に担ぎ、こちらを見ずに言った。
「カイル。一つだけ言っておく」
声の温度が、変わっていた。
「剣に、持ち主を選ばせるな」
「……どういう意味ですか」
「そのままの意味だ」
老人は振り返らなかった。
「長く振っていると、たまにある。振っているつもりが、振らされている。——そうなった奴を、俺は一人知っている」
二十年前の話だ、とは言わなかった。
言わなかったことで、かえってはっきりした。
その夜。
寝台に横になっても、なかなか眠れなかった。
レイナードの手記。オルドーの言葉。セレナの、喉元に置かれた細い火。順番も脈絡もなく頭の中を通り過ぎて、そのたびに意識が浮き上がる。
壁に立てかけたリベリオが、月明かりの端に入っていた。
布を巻いたままの柄。抜いたことは、一度もない。
うとうとと、意識が沈みかけた、その時だった。
——とん。
柄が、脈を打った。
飛び起きた。
森の中で感じた、マナが流れ込む時のあの震えじゃない。あれは水路を水が通る震えだ。これは違う。
もっと、内側からだった。
心臓に、近い。
俺は寝台を降り、月明かりの中で柄に手を伸ばした。布越しに指が触れた瞬間、震えは止んだ。
何もない。ただの、冷たい柄だ。
それなのに——見られていた、という感触だけが、指の腹に残っていた。
(……剣に、持ち主を選ばせるな)
老人の声が、今になって輪郭を持った。
窓の外で、遠く、鐘が鳴った。
こんな時間に鳴る鐘じゃない。三つ。間を置いて、また三つ。
急報を告げる打ち方だと気づいた時には、廊下がもう騒がしくなっていた。
寮の窓という窓に、明かりが点っていく。
東の境界で、何かが起きていた。