第二章「偽りの代償」
第21話「東の急報」
公開:2026.09.22 ・ 3,128文字
鐘は、夜明けまでに三度鳴った。
三つ打って、間を置いて、また三つ。そのたびに寮の廊下を誰かが走り、そのたびに誰かが扉を開けて顔を出す。結局、誰も何も知らなかった。
知らないまま朝が来て、知らないまま飯を食って、知らないまま講義棟に集められた。
掲示板の前に人だかりができている。
貼り出された紙は一枚だけだった。学院の正式な布告にしては妙に短く、書いた人間の手が急いでいたのが字の傾きで分かる。
——東方境界において武力衝突。当該地域出身の者は追って指示を待て。
東方境界。
頭の中で地図を開くまでもなかった。エステリア大陸の東の端。グランハルト家の領と、海の向こうから伸びてくるゼフィリア家の影響圏が触れ合う線だ。
火と、風。
(よりによって、そこか)
人だかりの奥に、銀灰色の髪が見えた。
セレナは紙の前に立ったまま、動かなかった。
教室の空気は、割れた。
いつもなら属性も家柄も混ざって座っているのに、その朝だけは座席の島がはっきりと分かれていた。誰が指示したわけでもない。人は不安になると、同じ形の者の隣に寄る。
「馬鹿げてるぜ」
最初に沈黙を破ったのはガレスだった。椅子を軋ませて背を反らし、天井に向かって吐き捨てる。
「線を一本どこに引くかで、麦を作ってる奴らが焼かれるんだ。どっちの旗が立ってたって、麦は同じ味だろうが」
「ガレスさんのお家は、中立でしたね」
ナディアの声は、相変わらず波のない水のようだった。
「今のところはな。親父がどう出るかは知らねぇ」
「アズライトは仲裁の使節を出すと思います。父は、そういう人ですから」
彼女は窓の外を見ていた。穏やかな横顔だった。穏やかすぎて、逆に分かった。この人は、仲裁という言葉が何度失敗してきたかを知っている。
教室の隅に、一人だけ、朝から何も変わっていない顔があった。
ヴィクトだ。
薄い笑みも、頬杖をつく角度も、昨日とまったく同じだった。自分の家が撃った側かもしれないのに、眉一つ動いていない。
(知ってたな)
そう思った瞬間、向こうもこちらを見た。
目が合って、彼はほんの少しだけ首を傾げた。挨拶にしては丁寧で、謝罪にしては軽すぎる角度だった。
昼過ぎ、セレナが通信室に呼ばれた。
水の魔女が張った水鏡越しの通信は、声が先に届いて像が遅れる。俺は扉の外にいた。中に入る資格は俺にはない。ただ、五百メートルの内側にはいなければならない。
名家の娘が父親に呼ばれる場に、パートナーの男が壁一枚隔てて立っている。
この制度の歪さを、たまに思い出す。
扉は厚かったが、炎将の声は通った。
『セレナ』
『……はい、お父様』
『境界の視察に加われ。学院には話を通してある』
間があった。水鏡の遅れではない間だった。
『視察、ですか』
『グランハルトの娘が境界に立っている。それだけで意味がある』
『……魔女として、ではなく』
『何が違う』
違わない、と父親は言った。違わないから来い、と。
返事は短かった。
『——グランハルトの名に、恥じぬように致します』
通信が切れる音がして、しばらく何も聞こえなくなった。
扉が開いた時、セレナの顔は完璧だった。背筋も、口元も、歩く速さも、全部名家の令嬢のものに戻っていた。
完璧すぎて、嘘だと分かる。
「聞いてたんでしょ」
「壁が薄い」
「厚かったわよ」
彼女は廊下を三歩進んで、立ち止まった。
「わたし、並ばされるのよ」
声が低かった。
「グランハルト家の火の魔女が何十人も並んでる中に、当主の娘として並ばされるの。撃てとは言われない。立ってろって言われるだけ」
「……ああ」
「立ってるだけなら、偽物でもできるわ」
笑おうとして、失敗していた。
俺は何か言おうとして、言葉を探して、見つからなくて、結局こう言った。
「俺も行く」
「当たり前でしょ。五百メートルよ」
「そうじゃない」
セレナが振り返った。
「立ってるだけで済まなかった時の話をしてる」
彼女は何も言わずに前を向いて、また歩き出した。
歩く速さが、さっきより少しだけ遅くなっていた。ついてこい、と言われているのだと思うことにした。
夕方の回廊で、ヴィクトが待っていた。
待っていた、としか言いようがなかった。柱の影から出てくる間の取り方が完璧すぎる。
「カイルさん。少しだけ」
「断ったら?」
「追いかけます」
悪びれもしない。俺は足を止めた。
夕日が柱のあいだから横に差して、床に長い縞を作っていた。ヴィクトはその縞の、暗い方に立っていた。たぶん、意図してだ。
「東のこと、驚きました?」
「あんたは驚かなかったみたいだな」
「驚きましたよ。予定より三月早かったので」
風が通った。回廊の端で、落ち葉が一回りした。
今のは答えだ、と思った。この男は嘘をつかない。本当のことを、致命的にならない形でだけ言う。
「僕とあなたは、来月には敵同士かもしれませんね」
「かもしれないな」
「ええ。それで——」
彼は一歩、明るい縞の方へ出てきた。
薄い笑みは、まだ顔に貼りついたままだった。ただ、声だけが少し低くなった。
「あの剣のことは、まだ誰にも話していませんよ」
心臓が、一拍遅れた。
見られていたことは知っていた。編入してきた日から——いや、初めて学院に顔を出したあの日から、この男は俺の腰のものを見ている。だが「話していない」と本人の口から言われるのは、初めてだった。
話していない、ということは。
話せる中身を持っている、ということだ。
「……何が目的だ」
「今日は何も。ただ、言っておきたかっただけです」
ヴィクトは歩き出し、すれ違いざまに足を止めた。
「戦が始まると、人は手札を切りたくなる。——僕が切らなかったら、それは僕がそうしたかったからだと思ってください」
返す言葉を探しているあいだに、足音は遠ざかっていた。
その夜、上級課程の全員が訓練場に集められた。
松明が四隅に立てられて、地面に四つの影が伸びていた。並んだ顔は三十ほど。半年前、基礎課程の広間で同じように並んだ時は、もっと人がいた気がする。
エルザ教官は、前置きを一つもしなかった。
「東方境界で、両家の部隊が接触した。死者が出ている」
誰かが息を呑んだ。
「学院は本日付で、戦時編成に入る」
松明が鳴った。
「上級課程は以後、訓練ではなく任務を受ける。行き先は選べん。組も選べん。——魔獣の時とは違う。今度向かい合うのは、お前たちと同じものを持った人間だ」
誰も何も言わなかった。
ガレスの拳が握られるのが、松明の明かりで見えた。ナディアは胸の前で指を組んでいた。レイナードはいつも通りの姿勢で立っていて、イレーネだけが、珍しくレイナードの袖を掴んでいた。
「解散」
列が崩れる。
その中を、リオンが人をかき分けて寄ってきた。
「なあ、カイル」
いつもの笑い方をしようとして、途中でやめた顔をしていた。後ろでミラが黙って立っている。
「俺さ、魔獣の時は留守番組だったろ。次はたぶん、行くんだよな」
「……ああ」
「相手、人なんだよな」
答えなかった。答えないことが答えになるのは分かっていたが、嘘をつく方がひどい。
リオンは頭を掻いて、それから無理やり笑った。
「まあ、なんとかなるって」
俺がよく使う台詞だった。借りていかれたのだと気づいて、少しだけ息がしやすくなった。
二人が離れていく。
俺は動かなかった。隣のセレナも動かなかった。
訓練場の土が、昼間の熱をすっかり失っている。夏に五人で川へ行った日から、一月半しか経っていない。
一月半で、訓練が任務になった。
「カイル」
セレナが、前を向いたまま言った。
「あんた、剣を抜かないままでいられると思う?」
答えられなかった。
鞘の中のリベリオが、昨夜のように脈を打つことはなかった。ただ、布越しの柄が、手のひらに冷たかった。
松明が一つ、風に煽られて消えた。
東の空は、まだ暗い。