序章 火を継ぐ者
第1話「鍵のない書架」
公開:2026.04.26 ・ 0文字
深夜零時。
夜書庫の入り口には、鍵がない。
芹沢ユイは、ランタンを掲げたまま、しばらくその扉の前に立っていた。 鍵がかかっていれば、引き返す理由ができたのに、と心のどこかで思いながら。
扉に触れると、木は氷のように冷たかった。指を引きそうになるのを、ぐっと堪える。
今夜、ユイがここに来た理由はひとつだ。
「禁書、ね」
ユイは小さく呟いた。叔父が遺した蔵書のなかに、確かに含まれていたはずの一冊が、消えていた。 表紙の色も、背の触れ心地も覚えている。けれど中身は、一文字も思い出せない。
まるで、自分が読んだという記憶ごと盗まれたかのように。
扉が、ふっと内側に開いた。風の音はしなかった。
書架の谷間に、青い光が点々と灯っている。月明かりではない。書物の頁そのものが、淡く発光しているのだ。
ユイはランタンの火を消し、片手で口元を押さえながら、最初の一歩を踏み出した。
奥へ進むほど、書架は背を伸ばしていった。
二階分はあるかと思った天井が、いつのまにか四階分になっている。 振り返ると、入ってきた扉は、もう見えなかった。
「……来たね」
声がした。
書架の影から、ひとりの男が現れた。 薄手のコートを羽織り、黒髪の襟元に、銀の栞が一本、鎖で吊られている。 年齢は二十代の半ばに見えるが、目だけが、何百年も読書を続けてきた者の色をしていた。
「あんたが、夜書庫の主か」
ユイは、声が震えないように、ゆっくりと尋ねた。
男は、笑わなかった。
「主、と呼ぶのは違う。私は、ここから出られなくなった、ただの読書家だ」
言葉と同時に、背後の書架から、一冊の本が音もなくすべり落ちた。 本は床に着く前に、宙でぴたりと止まる。
ユイの胸の奥で、心臓が一度、強く跳ねた。
その本の表紙を、ユイは知っていた。
叔父の蔵書から消えた、あの一冊だった。
「読みたいか」
男が訊いた。
ユイは、答えなかった。
代わりに、ランタンを床に置き、両手をゆっくりと、宙に浮かんだ本へ伸ばした。
指先が表紙に触れた瞬間、書架の灯りが、いっせいに揺れた。
夜の書庫が、ユイを頁の中へ取り込もうとしていた。