序章 火を継ぐ者
第2話「頁のなかで眠る者」
公開:2026.04.27 ・ 0文字
頁の中は、海だった。
ユイは、月のない夜の浅瀬に立っている。 膝まで水に浸かっているのに、寒さは感じなかった。 裸足の下で、砂利のかわりに紙片が踏みしめられている。 どれも、字の擦れた頁の断片だった。
「ここが——叔父さんの蔵書?」
ユイは小さく呟いた。波が答えるように、ひとつ寄せて、引いた。
遠くで、鈴の音がした。
その音色を、ユイは知っている。 七歳の夏、叔父の家の縁側で、ひとりで本を読んでいた午後。 庭先で揺れていた風鈴の音と、まったく同じ音だった。
「思い出した、ね」
背後で、男の声がした。
振り向くと、銀の栞を吊した男が、波打ち際に立っていた。 彼の足は、水に濡れていない。
「君が叔父上から受け取ったのは、本ではない。記憶だ」
ユイは、唇を噛んだ。
「叔父さんの——」
「ああ。幼い君に、彼が渡し損ねた言葉が、いまもこの頁の底で眠っている」
ユイは、海面に目を落とした。
水面のすぐ下に、誰かが横たわっているのが見えた。
顔を見るまでもなく、それが叔父であることは分かった。 痩せた手の指先が、紙の頁をひと束、しっかりと握っている。
ユイは、思わず腰を屈めた。
「叔父さんっ——」
水中の手が、ぴくりと動いた。 頁の束が、ゆっくりとほどけ、文字の群れが水のなかに散らばっていく。
文字たちは、ひとつ、またひとつ、ユイの掌へ昇ってきた。
手のひらに、温かさが宿る。
その温度を、ユイは確かに覚えていた。
「決めるのは、君だ」
男が静かに言った。
「彼の遺した記憶を、君が書き継ぐのか。 それとも、ここで読み終えて、書庫を後にするのか」
ユイは、両手の文字を、そっと胸に押し当てた。
文字は熱を失わず、皮膚を通して、心臓に染み込んでいった。
顔を上げる。
遠くの闇に、書架の輪郭が浮かんでいた。 背を伸ばした書架の頂上に、火が一灯、ぽつりと灯っている。
「——書く」
ユイは答えた。
「叔父さんの続きを、わたしが書く」
男はうなずいた。
夜の書庫の灯は、新しい主のために、ひとつだけ位置を変えた。