第一章「沈黙の聖堂」
第5話「もうひとりの耳」
公開:2026.05.25 ・ 3,010文字
もうひとりの耳
扉の向こうの息づかいは、エルマのものよりも、ずっと小さく、ずっと速かった。
ライラは、写字室の扉の内側に、手のひらを当てた。 冷たい樫の木が、その向こうの気配を、薄く、伝えてくる。 小さく、速い息。大人の重さでは、なかった。 ライラは、自分の息を、ひとつ、整えた。それから、扉を、内側へ、ゆっくり引いた。
廊下に、小さな影が、立っていた。
月明かりは、回廊の高い窓から、斜めに落ちていた。その光の縁のあたりに、薄い夜着の子供が、裸足で、ひとり立っていた。 肩までの髪が、寝起きのまま、片側だけ、跳ねている。 半年前に、隣の村から預けられた女の子だった。名前は、ニナといった。
ニナは、ライラを見ても、驚かなかった。 驚いたのは、ライラのほうだった。
「……眠れないの」
ニナは、囁くより、少しだけ大きい声で、そう言った。 咎める色も、怯える色も、なかった。ただ、夜のことを、夜のままに話す、平らな声だった。
ライラは、写字室の扉を、後ろ手で、そっと閉めた。 閉める音は、思っていたよりも、廊下の石の上に、長く残った。
「ニナ」
その名を呼んでから、ライラは、自分の声が、わずかに掠れているのに、気づいた。
「こんな時間に、ひとりで歩いたら、いけないでしょう」
言いながら、ライラは、自分のことを思った。 自分も、いま、こんな時間に、ひとりで、歩いていた。 ニナは、それを、ちゃんと知っている顔をしていた。
ニナが、この修道院に来た日のことを、ライラは、覚えている。 秋の終わりの、雨の日だった。村の荷車が、ぬかるんだ坂を、ゆっくり登ってきた。 荷台から降ろされた小さな子は、泣かなかった。 ただ、自分が登ってきた坂のほうを、振り返って、長いあいだ、見ていた。 その横顔を、ライラは、回廊の柱の影から、見ていた。
——あの目を、わたしは、知っている。
そう思ったことを、ライラは、よく覚えていた。修道院に来た最初の冬、自分も、たぶん、同じ目で、同じ坂を、見ていたのだ。
——もう、お休み。寝床に戻りなさい。
そう言うべきだ、と、ライラは思った。シスターの誰かがそうするように、静かに、優しく。 その言葉は、喉のあたりまで来て、止まった。 ニナの裸足の指は、ライラの裸足の指と、同じ冷たさの石を、踏んでいた。同じ夜の、同じ廊下を。それを見てしまうと、戻りなさい、とは、言えなかった。
「ライラは」と、ニナが言った。 「あの音、聞こえる?」
ライラの足の裏が、石の冷たさを、急に、強く感じた。
「……音」
「夜になると、聞こえるの。下のほうから」
ニナは、廊下の先を、指さした。 その指の方角に、聖堂があった。聖堂の奥に、地下へ降りる、古い石段があった。
「歌、みたいな音。だれかが、ずっと、小さい声で、歌ってる」
ライラは、答えなかった。 答えられなかった、と言ったほうが、正しかった。
「シスターたちに言ったの。でも、だれも、聞こえないって。ニナの夢だって」
ニナは、そう言って、ほんの少しだけ、笑った。 笑ったのに、その目は、笑っていなかった。
——だれにも、信じてもらえない。
その寂しさの形を、ライラは、自分の身体の、いちばん古いところで、知っていた。 ライラも、子供のころ、一度だけ、エルマに言ったことがあった。夜に、聞こえないはずの音が視える、と。エルマは、咎めなかった。ただ、ライラの額に手を置いて、それは熱のせいですよ、と、柔らかく言った。それきり、ライラは、二度と、誰にも、言わなかった。
ライラの右手が、修道服の袖の中に、滑り込んだ。 だめだ、と思った。 そう思った口の、その思いより先に、手は、もう、石片を、掌の上に出していた。
——この子の前で。
恐怖は、確かに、あった。ニナが、明日、エルマに話すかもしれない。ライラが夜、写字室にいたこと。掌に、奇妙な石を乗せていたこと。 それでも、ライラは、もう一度、聴きたかった。 あの半分の声の、続きを。ニナの言う「歌」が、自分の聴いているものと、同じなのかどうかを。 その飢えは、恐怖を、また、半歩、追い越していった。
ライラは、石片を、月の光のほうへ、傾けた。
石片の表面の、いちばん浅いところから、紫がかった藍の線が、ゆっくりと、滲み出てきた。 線は、ライラの指のあいだで、薄く、震えた。 彼女が、息を、ゆっくり吐くと、線は、それに合わせて、廊下のほうへ、ためらいながら、伸びた。 吸うと、ふっと、縮んだ。
ニナは、その線を、見なかった。 ニナの目は、ライラの手のあたりに向いていたが、藍の色は、そこに映ってはいなかった。 線は、やはり、ライラにしか、視えない。
それでも——ニナは、聞いていた。
「あ」と、ニナが、小さく言った。 「いま、すこし、大きくなった」
ライラの胸が、ひとつ、強く打った。 打った鼓動が、藍の線の芯に、伝わっていくのが、視えた。
ニナには、線は視えない。 けれど、ニナは、何かを、聞いている。 ライラが石片を傾けた、ちょうどその時に、ニナの言う「歌」は、確かに、大きくなったのだ。
「ニナ」と、ライラは、できるだけ、静かに、訊いた。 「その歌は……どんな、言葉?」
ニナは、首を、すこし傾けた。
「言葉じゃ、ないの。ことばの、手前みたいな音。でも、名前を呼んでるみたいな時も、あるよ」
——名前。
ライラの掌の中で、石片が、夜の石の冷たさを、ひとつ、超えた。
そのとき、半語の声が、もう一度、耳の奥で、響いた。 最初の音、二つ目の音、三つ目の音。 そして、その先に——四つ目の音が、初めて、続いた。
ライラは、その四つの音を、自分の名前に、並べてみた。 ライラ・ノクト。どこにも、嵌まらなかった。 それから、ニナ、という名前に、並べてみた。 そこにも、嵌まらなかった。
その名前は、ライラのものでも、ニナのものでも、なかった。 けれど、その音は、ニナにも、届いている。 歌として。意味の手前の、音として。
——わたしだけじゃ、ない。
その思いは、なぜわたしだけ、という古い問いの、ちょうど裏側から、立ちのぼってきた。 裏側は、安心の場所のはずだった。 それなのに、ライラの胸は、安心とは違うほうへ、強く、引かれていった。 わたしだけじゃない。それは、つまり——わたしの聴いているものは、夢ではない、ということだった。
「ニナ」
ライラは、膝を、すこし折って、ニナと目の高さを、近づけた。
「その歌が、いちばん大きく聞こえるのは、どこ?」
ニナは、ためらわなかった。 小さな手で、まっすぐ、廊下の先を——聖堂の奥の、あの石段の方角を、指さした。
「下のほう。階段を、降りていった、いちばん奥。古い扉が、あるの」
ライラの息が、止まった。 止まった息に合わせて、藍の線も、止まった。止まったまま、廊下の闇のなかで、その方角へ、芯のある一本だけが、細く、伸びていた。
「ニナ。その扉を、見たことが、あるの」
「すこしだけ。エルマさまに、すぐ、つれ戻されたけど」
ニナは、そう言って、ライラの手を、握った。 冷たい、小さな手だった。その小ささが、ライラの指に、奇妙なほど、はっきりと伝わってきた。
「ライラも、聞こえてるんでしょう」
それは、問いの形をした、確かめだった。 ライラは、否定の言葉を、探した。探したが、見つからなかった。
「いっしょに、行ってみる?」
ライラの掌の中で、石片は、もう、夜の石ではなかった。 誰かの呼吸のように、はっきりと、温かかった。 そして、半語の声は——四つ目の音の、その先を、まだ、言い終えてはいなかった。