NOVLUM

星譜の声

第一章「沈黙の聖堂」

第6話「四つ目の音」

公開:2026.06.01 ・ 3,338文字

四つ目の音

ニナの手のひらは、夜の石より、ほんの少しだけ、温かかった。

ライラは、その温度に、答える前に、深く、ひと呼吸した。 吐いた息は、回廊の月明かりのなかで、白くはならなかった。それでも、自分の喉の奥で、息が、確かにかたちを持って震えているのが、彼女には視えた。 ニナの指は、ライラの指のあいだで、まだ、答えを待っていた。

——いっしょに、行ってみる?

子供の声が、夜の廊下に、まだ、薄く残っていた。 その問いに、いま、ライラが選べる答えは、たぶん、ふたつしかなかった。

ひとつは、ニナの手を引いて、廊下の奥へ、聖堂へ、その下の石段の闇へ、二人で降りていくこと。 もうひとつは、ニナの手を、そっと解いて、寝床に戻ること。 朝になったら、二人とも、何も視なかった顔をする。聖堂の地下にも、半語の声にも、誰かの名前にも、近づかない。

ライラが「正しい」と知っているのは、後者だった。 それでも、彼女の右手の袖の中で、石片は、ニナの手のひらと同じ温度で、鼓動していた。

ライラは、膝を、もう一度、折った。 ニナの目の高さに、自分の顔を、戻した。

「ニナ。あの音は——わたしも、聞いてる」

そう言ったとき、自分の声が、ふだんよりも、ずっと低く出るのが分かった。 ニナは、驚かなかった。ただ、まばたきを、一度した。 そのまばたきのなかに、夜の廊下の月光が、ちいさく、一度、揺れた。

「だから、ね」と、ライラは続けた。 「いっしょには、行かない」

ニナの指が、ライラの指のあいだで、ほんの少しだけ、こわばった。 そのこわばりが、ライラの胸の、ふだんよりも深いところに、当たった。

「ライラだけ、行くの」

「いっしょに行ったら、わたしが、ニナを、守れない」

その言葉を、ライラは、口に出してから、はじめて、聞いた。 誰かを守る、という言葉を、自分が言うとは、思っていなかった。 言ってしまうと、その言葉は、寒い廊下のなかで、奇妙に、本当のことになった。

ニナは、しばらく、ライラの顔を、見ていた。 それから、自分の小さなうなずきを、夜のなかで、ひとつだけ、した。

「じゃあ、ニナは、聖堂で待ってる」

「ニナ」

「歌のいちばん大きいところには、ライラのほうが、近いほうが、いいから」

その理屈の、奇妙な正しさに、ライラは、ほんの一瞬、言葉を失った。 失ったあいだに、自分の足は、すでに、廊下を、聖堂のほうへ歩きはじめていた。

聖堂は、夜の中で、深く呼吸していた。 香炉の残りの煙が、長椅子の上の空気を、薄く、重くしている。 祭壇の蝋燭は、二本だけ、点いていた。その光が、石の床の上に、長い影を、二つ、引いていた。

ライラは、聖堂の脇の長椅子の、いちばん奥の影に、ニナを座らせた。 ニナの裸足の指は、長椅子の下の冷たい石の上で、ためらわずに、自分の場所を見つけた。 そういう子だった。 夜の石の上で、自分の場所を、ためらわずに見つけられる子。 それを見て、ライラは、なぜか、自分の母のことを、ほんの一瞬だけ、思った。会ったこともない、顔も知らない、自分の母のことを。

「ライラ」と、ニナが、囁いた。 「歌、ここまでも、すこし、聞こえる」

ライラは、答える代わりに、自分の毛織の肩掛けを、ニナの肩に、かけた。 肩掛けは、ニナの細い肩には、ずいぶん、大きすぎた。それでも、その大きさが、なぜか、ライラの胸の、いちばん古いところを、ひとつ、温めた。

「ここから、動かないで」

ニナは、うなずいた。 そのうなずきを背に、ライラは、廊下を曲がった。

地下への石段の上に、彼女は、立った。

灰色の石の壁。低い天井。一番上の段の真上の、薄く彫られた、あの印。 中央に渦、その右に二つ並ぶ短い縦の線。

ライラは、袖の中の石片を、掌の上に、出した。 石は、すでに、夜の石ではなかった。誰かの呼吸の温度を、ずっと、保っていた。

息を、ゆっくり、吐く。 石片の中央の記号を、壁の印の真上に、近づける。

紫がかった藍が、壁の印の表面から、立ちのぼってきた。 今夜の線は、ふだんよりも、ひと太さ、芯を持っていた。 それは、ライラが息を吐いただけで、もう、一段目を、ためらわずに、降りていった。

ライラの足も、線について、降りた。 一段。二段。 裸足の指が、石の冷たさを、ひとつ、深く確かめる。 三段目。 ここから先は、前回、シスター・モランに呼ばれて、足を止めた場所だった。

四段目に、ライラは、足を、伸ばした。 今度は、誰の声も、上からは降ってこなかった。

踊り場まで、降りた。

藍の線は、踊り場の床の中ほどで、また、芯を持ったまま、立ち止まっていた。 彼女が、息を、止めると、線も、止まった。 吸うと、線が、震えた。

ライラは、その芯の上に、しゃがんだ。 両掌で、石片を、踊り場の冷たい石の上に、そっと、置いた。

そのとき、半語の声が、もう一度、耳の奥で、響いた。

最初の音。二つ目の音。三つ目の音。 そして、四つ目の音が、はっきりと、形を持った。 四つ目の音は、湿った木の扉を、内側から、ひと節だけ、押してくるような、奇妙に厚みのある音だった。

——その先は。

ライラは、唇を、わずかに、開いた。 開いた口で、何も、唱えなかった。それでも、五つ目の音は、続いた。

五つ目は、二つ目の音と、よく似ていた。 ライラの名前のなかの、どこを探しても、嵌まらなかった。 ニナの名前にも、嵌まらなかった。

その名前は——ライラのものでも、ニナのものでもない、別の、誰かの名前だった。

ライラの掌の中で、石片が、ひとつ、強く打った。 打った鼓動が、藍の線の芯に、ふっと、伝わるのが、視えた。

その時だった。

地下の闇の、ずっと奥のほうから——別の声が、応えた。

ライラの聞いた最初の音、二つ目の音、三つ目の音を、その別の声は、まるで習い覚えた者のように、ゆっくりと、復唱した。 四つ目までは、たどり着かなかった。 ただ、三つの音を、確かに、なぞり終えた。 それから、その声は、ふっと、闇のなかに、引いた。

ライラの息が、止まった。 止まった息に合わせて、線も、止まった。 止まった藍の芯だけが、踊り場の石の上で、彼女の鼓動の数だけ、震えていた。

——いま、聞こえたのは。

ライラの記憶のなかの、半語の声では、なかった。 自分の耳の奥に、夜ごと届く、あの声でも、ない。 踊り場よりも、もっと下の、もっと奥の——古い扉の、さらに向こうから、響いてきていた。

声は、消えた。 それでも、ライラの石片の温度は、もう、自分の掌の温度を、超えていた。

——わたしのほかにも、ここに、いる。

その思いは、立ちのぼる、というより、踊り場の石のいちばん奥から、ゆっくりと押し上げてくる、ひとつの確信だった。 ニナのように、地上で、薄く聞いている者だけが、いるのではない。 このもっと下の闇のなかにも、半語の声を、復唱できる、誰かが、いる。 そして、その誰かは——わたしの聴いた音を、知っている。

ライラの右手は、無意識に、地下のさらに下の段のほうへ、伸びかけた。 伸ばしかけた指の先で、藍の線が、ふっと、ためらった。

その時。

聖堂のほうから、ニナの、息を、はっと、止める、ちいさな音が、降ってきた。

階段の上のほうで、もう一つ、別の足音が、聖堂の石の上を、ゆっくりと、近づいてきていた。 急ぐ音では、ない。重い音でも、ない。 修道院の夜の廊下を、毎晩、最後にひとりで確かめて回る——シスター・エルマの、いつもの歩きかただ。

ライラの息が、もう一度、止まった。 止まった息で、彼女は、石片を、踊り場の石から、両手で、すくい上げた。 石は、まだ、誰かの呼吸の温度のまま、彼女の掌に、収まった。

聖堂の長椅子の影で、ニナが、肩掛けの下で、身を硬くしているのが、距離を越えて、ライラの胸に、はっきりと、届いた。 ニナは、まだ、何も、言っていない。 言わずに、聖堂の長椅子の影に、息だけを、潜めている。

エルマの足音が、聖堂の入り口で、ふっと、止まった。

ライラは、踊り場の壁に、左手を、強く、押し当てた。 押し当てた指の下で、藍の線は、もう、芯を失っていた。 それでも、闇の奥のほうでは——別の声が、もう一度、ほんの半語だけ、応えはじめている、その気配が、確かに、あった。

ライラは、その気配を、背中に、残したまま、——階段の最初の段のほうへ、ひとつ、足を、戻した。