NOVLUM

星譜の声

第一章「沈黙の聖堂」

第7話「夜の許し」

公開:2026.06.08 ・ 3,123文字

夜の許し

エルマの足音が止まった瞬間、聖堂の蝋燭が、ふっと、ひとつだけ、長く、息をついた。

ライラは、踊り場の壁から、左手を、剥がした。 壁の石の冷たさは、彼女の指の腹に、薄い跡を残して、消えた。 右手の中の石片は、まだ、誰かの呼吸の温度を、確かに保ったまま、袖の奥へ、滑り込んでいった。

階段を、一段、二段、と、彼女は、戻った。 裸足の足の裏が、石の冷たさを、降りるときよりも、ひと回り、深く確かめる。 息は、できるだけ、浅く保った。深く吸うと、肋骨が、夜の壁を撫でてしまう気がした。

最後の一段を上がる前に、ライラは、自分の喉のあたりに、片手を当てた。 喉の奥で、まだ、半語の声の四つ目の音が、薄く、震えていた。 その震えを、彼女は、唾と一緒に、ひとつ、奥に飲み込んだ。

聖堂に、出る。

祭壇の蝋燭は、二本のまま、点いていた。 その光の手前に、エルマが、立っていた。 急ぐ動きでは、なかった。腰の前で軽く両手を組んだ、いつもの形。 左手の指のあいだに、古い銀の珠繰りが、二粒だけ、長椅子の影のほうへ、こぼれていた。

「ライラ」

エルマの声は、夜の聖堂の冷たい空気のなかで、ほんの少しだけ、低く聞こえた。 咎める色は、なかった。 ただ、低い。子供を起こす前の母親の、低さに似ていた。 ライラは、その低さに、なぜか、自分の喉のあたりが、ひと節、痺れるのを感じた。

「夜の聖堂は、寒いでしょう」

そう言いながら、エルマは、もう一歩、ライラのほうへ、近づいてきた。 裸足のライラの足の前で、エルマの靴の音は、こつ、と、一度だけ、止まった。

「ニナを、捜していらしたの」

ライラの胸が、ひとつ、強く打った。 打った鼓動が、袖の中の石片の表面に、はっきりと、伝わるのが、視えた。

「……はい」

その嘘は、口に出してみると、自分でも驚くほど、自然な形で、出てきた。 出した嘘の音と、半語の声の四つ目の音が、なぜか、喉の奥で、わずかに、重なった。

エルマは、ライラの目を、見た。 それから、長椅子の、いちばん奥の影のほうへ、ゆっくりと、目を、移した。

毛織の肩掛けの裾が、長椅子の脚の前で、ほんのすこしだけ、はみ出していた。

エルマの口元が、ふっと、ひと節だけ、ほどけた。 微笑、というには、足りなかった。それでも、それは、彼女がライラに向ける、いちばん古い表情の、ひとつだった。

「ニナ。出ていらっしゃい」

ニナは、長椅子の影から、ゆっくりと、立ち上がった。 肩掛けは、ニナの細い肩から、半分、ずり落ちかけていた。 それを、ニナは、両手で、急がずに、自分の前で、抱え直した。

「ニナは……」と、ニナは、夜の石の上で、ひとつ、自分の言葉を整えた。 「眠れなかったの。だから、聖堂に、お祈りに来たの。寒くて、ライラのこれ、借りた」

ニナは、肩掛けの隅を、ほんの少しだけ、持ち上げて見せた。 その動きには、嘘の練習の、薄い気配があった。子供がはじめて誰かを庇うときの、まだ角の取れていない、ちいさな嘘。

ライラの胸の奥で、ひと節、何かが、ぎゅっと、縮んだ。 縮んだその場所が、藍の線の芯と、同じ位置だ、と、彼女は、夜のなかで、ひっそりと、知った。

「お祈りに、ね」と、エルマは、繰り返した。 繰り返した声には、咎める色も、笑う色も、なかった。 ただ、その言葉を、もう一度、夜の石の上に、置きなおすような、慎重な低さがあった。

エルマは、ニナのほうへ、ゆっくりと、歩み寄った。 そして、片手を、ニナの肩掛けの上に、置いた。 置いたのは、左手——銀の珠繰りを、握りなおしてからの、左手だった。

その瞬間、ライラの視界の、ちょうど端のあたりで、ひとつ、藍が、滲んだ。

長椅子の影のあたり、ではなかった。 祭壇のほうでも、ない。 エルマの左手の、銀の珠繰りの、いちばん古い珠の表面から、ほんの細く、紫がかった藍が、ゆっくりと、立ちのぼった。

ライラの息が、止まった。 止まった息に合わせて、その藍も、すぐに、消えた。 消える前の一瞬、線は、確かに、エルマの指の腹のあたりまで、伸びていた。 祈りの色、ではなかった。もう少し、暗い場所にあった、藍だった。

——いま、視たもの。

ライラは、もう一度、息を、吐こうとした。 吐ききれずに、ほんの細い線で、唇のあいだから、震えた息が、漏れた。

エルマは、その息に、気づかなかった。あるいは、気づかなかったふりを、した。 ニナの肩掛けを、すこしだけ、整えなおして、エルマは、もう一度、ライラのほうを、見た。

「お二人とも、寒い夜に、起きていらしたのね」 エルマは、いつもの、柔らかい微笑みを、夜の聖堂の冷たい空気のなかに、ひとつ、置いた。 「今夜のことは、わたくしから、誰にも申しません」

ライラは、その言葉の、いちばん古い場所に、なぜか、息を呑んだ。 誰にも申しません、というその約束は、咎めの代わりに、夜の石の上に、ひと粒、置かれた。 咎められるよりも、それは、もっと深く、彼女の足を、夜の聖堂の床に、縛った。

「ライラ」と、エルマは、もう一度、呼んだ。 「お前さんは、寒いところに、長くいすぎました」

エルマの右手が、ライラの肩のあたりに、軽く、置かれた。 置かれた手の温度は、夜の修道院の中で、いちばん、近い温度だった。 そのいちばん近い温度の下で、ライラは、自分の袖の奥の石片が、ひとつ、強く、打つのを、感じた。

その鼓動が、エルマの手のひらに、伝わったか、どうか。 それは、ライラには、視えなかった。 ただ、エルマの指の力は、ほんの一節だけ、ライラの肩の上で、強くなった。

「夜の許しは、朝には、引き上げます」 エルマは、囁きに近い声で、そう言った。 「だから、いまだけ、お前さんは、何も視ていない、ということに、しておきましょう」

——何も、視ていない。

その言葉は、ライラの耳の奥の、半語の声の、ちょうど続きのあたりに、ふっと、嵌まりかけた。 嵌まる前に、ライラは、それを、ぎりぎりで、外した。 外したのは、たぶん、踊り場の闇の奥から、聞こえてきた、あの別の声の記憶だった。

——わたしの聴いた音を、知っている、誰かが、いる。

その確信のほうが、エルマの夜の許しよりも、わずかに、強かった。 強かった、というよりも、彼女の身体の、いちばん古い場所が、もう、その確信のほうに、足を踏み入れて、しまっていた。

「ご一緒に、寝床まで、参りましょう」 エルマは、そう言って、ニナの肩掛けを、ニナの肩に、もう一度、きちんと、かけ直した。

ニナは、うなずいた。 うなずいた拍子に、ニナの右手が、ライラの修道服の袖の、ちょうど石片のある場所を、すれ違いざまに、ほんの少しだけ、撫でた。 すれ違ったその指の温度は、聖堂の石よりも、確かに、温かった。

ライラは、それに、応えなかった。 応える代わりに、自分の左手で、袖の上から、その撫でられた場所を、もう一度、ひっそりと、押さえた。

エルマを先頭に、三人は、聖堂を、出た。 石段のほうから、もう、別の声は、聞こえてこなかった。 ただ、ライラの掌の奥で、石片は、夜の修道院の中の、どの場所よりも、強く、息をしていた。

回廊を曲がるとき、ライラは、ほんの一瞬だけ、自分の背中の方角に、目を、やった。 聖堂の入り口の闇の、いちばん奥のあたり——その奥の、もうひとつ奥の、地下の踊り場の、さらに下の闇のあたりに、いま、確かに、半語の半語が、もう一度、ほんの細く、応えはじめている、その気配を、彼女は、背中で、はっきりと、聴いた。

エルマの右手が、ライラの肩から、ふっと、離れた。 離れた指の腹のあたりに、ライラは、もう一度、視た——銀の珠繰りの、いちばん古い珠の表面に、薄く、紫がかった藍が、ひと節だけ、染み出して、すぐに、引いていく、その細い線を。

エルマは、何も言わずに、回廊の角を、先に曲がった。