第一章「仮面の日々」
第12話「双属の伝説」
公開:2026.07.21 ・ 2,549文字
夏の陽が、高く昇りきっていた。
午前の座学。窓の外では蝉が鳴き始め、石造りの講堂にも熱気が忍び込んでくる。俺は机の下で、昨夜も握り潰した掌の豆を、そっと確かめていた。オルドーの木剣は、今日も容赦がなかった。
壇上には、エルザ教官。今日は訓練ではなく、魔法史の講義だった。
「魔女の属性は、母系に受け継がれる。火の家には火が、水の家には水が。これは血の理であり、世界の土台だ」
エルザの声は、いつも通り簡潔だった。風属性の熟練魔女らしい、無駄のない語り口。
「そして——一人の魔女が操れる属性は、原則、ただ一つ」
当たり前のことだった。誰も疑わない。俺の隣で、セレナが名家モードの仮面を被ったまま、静かにノートを取っている。
だが、そこでエルザは、ふと手を止めた。
「——原則、と言ったな」
教壇を離れ、窓辺へ歩む。片手を後ろに組んだ、軍人のような所作。
「歴史には、ごく稀に——例外が記録されている」
講堂の空気が、少しだけ動いた。
「二つの属性を操った、と伝わる魔女だ。火と風。あるいは、水と土。数百年に一人、現れるか現れないか。——双属の魔女、と呼ばれている」
双属。
聞き慣れない言葉が、夏の熱気の中に落ちた。生徒たちが、顔を見合わせて囁き交わす。
「先生、それって——本当の話なんですか」
前の列から、誰かが尋ねた。エルザは、薄く笑った。珍しく。
「さあな。記録の誤りだと言う者も多い。英雄譚の尾ひれだと。——なにしろ、一人の魔女に二つの属性が宿るなど、血の理に反する。あり得ない、とされている」
あり得ない。
その一言が、妙に耳に残った。
当たり前のものほど、何かがおかしいと気づく瞬間がある——昨日、オルドーが酒を片手に漏らした言葉だ。あの老騎士は、時折、世界の裏側を覗いたような顔をする。
俺は、隣を窺った。
セレナは、顔を上げていなかった。ノートに視線を落としたまま、ペン先が、止まっている。仮面の奥で——何を考えているのか。
(……いや)
俺は、自分に言い聞かせた。関係ない。セレナは火属性だ。偽物だろうと何だろうと、使っているのは、火。それだけだ。双属の伝説なんて、昔話に過ぎない。
そう思おうとして、昨夜の、セレナの呟きが蘇った。
——杖の中で、火が、勝手に形を変えた気がした。まるで、この火が、自分でどう燃えるか知ってるみたいに。
奥歯を、そっと噛んだ。
鐘が鳴り、講義が解けた。
生徒たちが三々五々、涼を求めて中庭へ散っていく。俺とセレナが荷をまとめていると、柔らかな声が近づいてきた。
「セレナさん」
ナディア・アズライトだった。青みがかった黒髪を夏の光に透かせ、いつもの穏やかな笑顔で立っている。水属性の、正しい名家の魔女。
「さっきの、双属のお話」
ナディアは、窓の外へ、ふと視線を向けた。何気ない口調だった。
「もし、本当にいたのだとしたら——その人は、どんな気持ちだったんでしょうね」
「……気持ち?」
セレナが、仮面のまま聞き返す。
「ええ」ナディアは、静かに頷いた。「誰とも違う力を持って生まれて。——周りには、同じ苦しみを分かる人が、一人もいなくて。凄い、と讃えられるほど、独りぼっちになっていく気がして」
穏やかな声だった。だが、その奥には、何かを見透かすような、静かな鋭さがあった。
「——変なことを言って、ごめんなさい。ただ、そんなふうに感じただけ」
ナディアは微笑み、会釈をして去っていった。
セレナは、答えなかった。ただ、握りしめたノートの端が、わずかに折れ曲がっていた。俺は、気づかないふりをした。
その日の午後。
訓練場での組手は、いつも通りだった。セレナが圏内にいる限り、俺の身体は軽い。布で包んだリベリオの柄を握り、自然界のマナを吸い上げる。吸ったマナは、対となるアルカナ・コーデックスへ、自動で送られていく。
いつも通りの、細い流れ。いつも通りの、綱渡り。
——はずだった。
一瞬。
柄を握る掌に、妙な手応えが走った。
火の、マナ。熱く、荒い、弾けるような手触り——それは知っている。毎日触れている。だが、その奥に、もう一つ。冷たく、澄んだ、風のような——全く別の手応えが、ほんの一すじ、混じった気がした。
俺は、思わずリベリオから手を離しかけた。
(——なんだ、今の)
だが、手応えは、もうなかった。握り直しても、吸い上げるのは、ただの火のマナ。熱く、荒い、いつも通りの一種類。
(……気のせいだ)
そう片付けた。今日は双属の話なんて聞いたから、妙に意識しているだけだ。マナに属性の混じりを感じるなんて、そんな器用な真似、俺にできるはずがない。
そう、思い込もうとした。
けれど、掌に残った冷たい余韻だけは、夏の暑さの中で、妙にはっきりと残っていた。
夜。
寮へ戻ると、セレナの姿がなかった。
嫌な予感がして足を向けたのは、図書館だった。夏の夜の、人の絶えた閲覧室。魔法の灯りが一つだけ点る奥の席に、銀灰色の髪が見えた。
セレナは、古い書物を開いていた。背表紙の擦り切れた、魔法史の原典。双属の魔女の、数少ない記録を——密かに辿っている。
「……起きてたのか」
声をかけると、セレナは顔も上げずに言った。
「眠れないだけ」
仮面は、被っていなかった。ページをめくる指先が、どこか性急だった。
「……馬鹿みたい。昔話を調べて、何になるっていうの」
口ではそう言いながら、彼女の眼は、ページを離れなかった。
俺が隣に立った、その時。
セレナの指が、ふと止まった。
古い挿絵だった。双属の魔女を描いた、色あせた図版。その魔女の傍らに——添えるように描かれた、二つの影。
一つは、長い剣。もう一つは、装飾の凝った杖。
対になった、武器。
俺の心臓が、一つ、大きく跳ねた。
「……セレナ」
「見えてる」
彼女の声は、掠れていた。挿絵の剣と杖——その形は、薄れ、崩れてはいたが。俺たちが毎日、布に包んで隠している、あの二つに——どこか、似ていた。
夏の夜風が、開いた窓から生ぬるく流れ込む。何百年も前の紙の匂いの中で、俺たちは、ただ黙って、その色あせた影を見つめていた。
双属の伝説と、対の武器。偽物の火と、昨夜の呟き。今日、掌をかすめた、冷たい手応え。
バラバラだったはずのそれらが、夜の底で、見えない糸で結ばれようとしている気がした。——まだ、名前のない予感として。